鍛冶町にある賢治の生家(母イチの実家) 葛{澤商店 賢治の母の実家 花巻市鍛治町
江戸時代北陸奥・蝦夷地を旅した菅江真澄は其の著書で花巻の由来について「・・・花巻と言ううまや(駅)あり 昔や牧のありけるやらんととふに さはこたへず 昔は河岸に花多くありてちりうく頃 水にうづまかれてたゆたふよりいふし名とこたふ」と書いてる つまり牧ではなく北上川に花が沢山散って渦巻いていた事に由来すると書いている  
右 下ノ畑ニ居マス
羅須地人教会の玄関脇に下がっている有名なセリフ 
下右 下の畑
 桜町4番地の詩碑のある高台の住まいから見下ろす所にある畑の事
下左 雨ニモマケズ・・・の詩碑 理想の農業実現のためかれが羅須知人協会を立て独居した跡に建てられた 今でこそ知らぬものが居ない賢治だが亡くなる37歳ころは無名である
 死後彼の手帳からこの一編の詩が発見されて以来草野新平 高村光太郎 谷川徹三らによって3年後にこの詩碑が建てられた 高村光太郎の揮毫による 何故か後半部分だけの詩碑 この下に遺骨と経文が納められていて9月6日は賢治祭が行われる 自耕の地(下ノ畑)の後ろの森が当時羅須知人協会があった所で詩碑が有る所 教鞭をとるのは4年半でやめて彼はここで理想の農業を目指たのです すぐ隣を北上川が流れている

花巻と言えば宮沢賢治でしょう 「雨ニモマケズ 風ニモマケス・・・・」の有名なメモ書きを知らない人はいない 彼は長男でその下にとし・しげ・清六・くにの5人兄弟左の葛{澤商店で生まれその産湯をとった井戸が中庭にあります 現在も卸売り業を営んでいて現社長は宮澤啓祐氏は花巻商工会議所会頭でおられる  「下ノ畑ニイマス」をもじって「このお店に居ます」など中々フーモラスがある 前のページのの豊沢町生家ですが2001年6月16日97歳で弟宮澤清六氏が亡くなりましたがその血縁の方が今でも住んでいました  ことに妹としは日本女子大を卒業後花巻高女の教諭心得の才媛で賢治にとって信頼するただ一人の女性であったと言う 弟清六氏は賢治とは逆に凄い長寿の方でした  右上下 花巻農業校高等学校は芝生が実に素晴らしかった  
 実家にある賢治の産湯に使った井戸 明治29年8月27日午前4時母イチは出産しこの井戸水で産湯をとりました 賢治生家の碑が2か所あるが当時は出産は自宅ではなく実家に戻って出産してたので2か所になっている   葛{澤商店裏の明治時代からの倉庫
 夷の里 其の3  
葛{澤商店入口の張り紙
コノオ店ニオリマス  宮澤商店は下ノ畑ニ居リマスもじって中々ユーモラスです