陸奥の 門岡山の ホトトギス 稲瀬の渡り かけて鳴くらん      西行法師
  陸奥の 和賀と江刺の さかひこそ 川にはいなせ 山にまた森          西行法師
 

 アテルイ王 巣伏の戦
大勝利1200年記念碑

 アテルイは古代東北蝦夷の英雄であり奥州市のシンボルなのです
3年に一度行われるアテルイ関市の里祭りはこの碑の前の神事から始まる 
水沢市 神明社境内



 ➡まさに胆沢・水沢・江刺はアテルイの故郷・本願の地なのです
稲瀬の渡り
門岡山、稲瀬といっても他県の我々には探すのに一苦労ですがここがあの有名な「水陸万頃」の地 旧胆沢の地にあると知れば凡その見当がつくでしょう。日本地名辞書(吉田東伍によると北上市の北上川を挟み稲瀬と相去の渡しと言う。門岡村は今は無く稲瀬町となり門岡山も国見山となった。広く胆沢の地は「賊奴の奥区」とも呼ばれ、そこに住む蝦夷を「胆沢の賊」、アテルイ・モレ等の首長を「賊師」「奥地の賊首」等と丸で極悪非道の悪人の住地 梁山泊の様なひどい認識なのだ。中央政府にとり胆沢の支配こそ律令国家の完成であり胆沢蝦夷の征服こそが最終目標であった。翻って蝦夷にとってはここ水陸万頃の胆沢こそ我が祖国防衛の為の最後の本土決戦の地であったのだ。その戦いの生々しいドキュメンタリーこそ我々の心を揺する物はない。胆沢は古代史を飾る美しき滅びの地なのです。見つけた原文をそのままのせてるてみると・・・・
日本書紀景行天皇27年 「武内宿禰 東国より還りまゐきて奏言(まお)さく、東夷の中、日高見国あり。其の国人男女並に椎(かみ)結(あげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇捍(たけ)し、是を総て蝦夷と曰ふ。亦土地沃壤(こ)えてひろし曠(ひろ)し、撃ちて取るべし」 ●続日本紀(776年宝亀7年11月26日) 「陸奥軍3000人を発して胆沢の賊を伐つ」 続日本紀(789年延暦8年3月9日) 諸国の軍、陸奥多賀城に会し、道を分け賊地に入る 続日本紀(延暦8年5月12日) 征東将軍に勅して曰く、比来の奏状をかえりみるに、官軍進まずなお衣河に滞るを知る。もって去る4月6日の奏にいふ。3月28日官軍河(衣河)を渡り営(たむろ)を3處に置く。その勢い鼎足の如し。それよりこのかた30余日を経るにいまだ審(つまびらか)にせず、何の事故によりてこれ留連(逗留)いたす。居して進まず、未だその理を見ず。それ兵は拙速を貴ぶ。未だ巧遅を聞かず。また、6・7月は計るに応に極熱すべし。如今入らずば恐らくその時を失わん。その時を失はば悔いても何の及ぶところあらん。将軍ら機に応じて進退して、更に間然なかれ、ただ久しく一處に留まり日を積み、粮を費やす。朕の恠(あや)しむ所、ただこれにあるのみ、宜しく滞る由し及び賊軍の消息をつぶさに駅に付し奏来るべし
続日本紀(延暦8年あ6月3日)  征東将軍副将軍奏す。副将軍外従位下入間宿禰廣成、左中軍別将従5位下池田朝臣真枚、前軍 別将外従5位下安部煖嶋臣墨縄らと義すらく、3軍謀りを同じくして力を併せ、河を渡り賊を討せんと。己に畢る。これにより中後軍2000人を抽出して、同じくともに凌ぎ渡る。賊師、夷、阿弖流為の居に至るころおい、賊徒300許人ありて、迎え逢いて、あい戦う。官軍勢強くして、賊衆引き逃れる。官軍かつ戦い、かつ焼き、巣伏村に至る。まさに前軍と勢を合せんとす。然れども前軍、賊のためにはばまれ、進み渡ることを得ず。ここに於て、賊衆800許人、更に来たりてはばみ戦う。その力はなはだ強く、官軍ようやく退くとき、賊徒ただちにに衝く。更に賊400許人、東山より出で官軍の後ろを断つ。前後に敵を受け、賊衆奮い撃ち官軍排せらる。別将丈部善理、進士高田道成、会津壮麻呂、安宿戸吉足、大伴五百継ら並びに戦死す。
そうじて賊の居を焼き亡ぼすこと14村、宅800許烟。機器、雑物別の如し。官軍戦死25人、矢のあたるもの245人、河に投じて溺死するもの1千36人、裸身にて泳ぎ来るもの1257人別将出雲諸上、道島御楯ら、余りの衆を引きて還り来る。ここにおいて征東将軍勅して曰く。比来の奏をかえりみるに云く、胆沢の賊、すべて河東に集まる。先ずこの地  を征して、後に深く入ること謀らんてえり、然るときは則ち、軍監以上、兵を率いて、その形勢を  張り、その威容を巌にして、前後相続きて、以ってせめ伐つべし。然るに軍少なく、将卑しく還  りて敗積いたせり。これ則ちその道の副将らが計策の失する所なり。善理ら戦亡ぶ、士衆 溺死者に及び至りては、惻脱の情(悲しみ悼む心)、懐に切なるあり。続日本(延暦8年7月17日) 「・・・いわゆる胆沢は、水陸万頃にして蝦虜生を存す・・・」日本記略(794年延暦13年6月13日) 副将軍坂上宿禰田村麻呂己下蝦夷を征す。10月28日 征夷将軍大伴弟麻呂奏す。457級を、斬首し、150人を捕虜とし、馬85匹  獲る、75処を焼き落す。日本記略(801年延暦20年九月27日) 征夷大将軍坂上宿禰田村麻呂らもうす。臣聞く、云々。夷賊を討伏せり。類聚国史(802年延暦21年4月15日) 造陸奥胆沢城使陸奥出羽按察使従3位坂上宿禰田村麻呂等言す。夷大墓公阿流為、盤具公母礼等種類500余人を率いて、降る。日本記略(延暦21年7月10日) 造陸奥胆沢城使田村麻呂来る。夷大墓公二人並び従ふ。日本記略(延暦21年8月13日) 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼らを斬る。この2虜は、並びに奥地の賊首なり。二虜を斬る時将軍ら申して曰く、この度は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かんと。しかして公卿執論していう。野性獣心、反復定まりなし。たまたま朝威に縁り、この梟師を獲たり。もし申請に依  り、奥地に放還するは、所謂虎を養いて患いを遺すなり。即ち両虜を捉えて、河内国杜山に斬る。
いかがでしょうか?古代胆沢の地はあの桓武天皇の「板東の安危この一挙に存り。将宜しく之を勉むべしの激文の下、節刀を授与された征東大将軍紀古差美が阿弖流為・母礼等の蝦夷の英雄達が命を賭けた第一次東北大戦争の地だったのです。所でこの檄文年配の方は何処かで聞いた事が有るでしょう。そうです日露戦争で東郷平八郎元帥が対馬海峡でロシアバルチック艦隊との海戦にあたり旗艦三笠から打電した「皇国の興廃この一戦にあり 各自一層奮励努力せよ」です。この海戦で帝国海軍は大国ロシアを破り世界を驚かせましたが紀古佐美軍は敢無く北上川の藻屑と消えたのでした。東郷平八郎提督は世界三大提督の一人です。残りはトラファルガー海戦で有名な英国ネルソン提督と余り知名度がない米国のジョン・ポール・ジョーンズと言われている。尤もこの檄文の草稿は軍人秋山兄弟(坂の上の雲)の弟である真之とも言われている。
(平成16年10月31日)(参考 水沢市史・北上市史・北上教育委員会・水沢市史・水沢埋蔵文化センター資料・ 捨聖一遍 講談社現代新書・ 図説岩手県の歴史 河出書房新社・東北ふしぎ探訪 無明舎出版・岩手県の歴史散歩 河合出出版 )
 
水沢市 神明社境内
水沢市姉体から北数kmの佐倉河に跡呂井と言う行政区がある。東隣はすぐ北上川である 以前は安土呂井と書かれていたと云う 阿弖流為の名残である事は間違いない 勿論アテルイの領土は北上川を挟み水沢・江刺にまたがっていたろうし 北上川そのものがしょっちゅう流れを変えていたのでこのポイントの生誕ではないがいづれにしろ阿弖流為はこの付近で生まれたのです 大墓公(たものきみ)阿弖流為『たも』は旧水沢市羽田町辺りの旧い呼び名を田茂山とも言われていたとも言うのも何か因縁めいてはいる➡