胆沢の地を語る時アテルイ・田村麻呂の延暦の大戦が話題が99%なのは止むを得ないが、ここに一人の名僧の足跡があるのは意外と知られていないのです。高下駄姿で南は九州鹿児島から北はここ胆沢の地まで歩き・踊り・配り・称えたあの時宗の開祖捨聖一遍(1239−1289年)です。歩きは遊行、踊りは踊念仏、配りは「南無阿弥陀仏決定往生60万人」と書かれたお札 称えたのは南無阿弥陀仏 である。実はここ胆沢の地(現北上市稲瀬町の東端の山中 国見山の南東 国見橋の東数キロ)に彼の祖父河野通信のお墓(現経塚)があるのです。一遍は祖父の墓参りに胆沢の地に来たのです。河野通信は伊予(愛媛)の河野水軍の総帥である。源平の瀬戸内の海戦では源氏に側につき海軍を持たぬ源氏の勝利の原動力となったのである。瀬戸内では義経ばかりが目立つが実は河野水軍無しには其の勝利はなかったのである。その功により彼は鎌倉勤務を命ぜられ単身赴任でやってきたが頼朝は妻政子の妹(谷・やつ)を娶らせてしまった。(1189年) 更に頼朝の奥州征伐では盛岡市の厨川まで側近として同行、論功により宮城県栗原郡三迫を賜った。然し頼朝没後守護職として伊予の国戻っていたが、やがて西面の武士として後鳥羽上皇側に付いた。そこで起きたのが承久の乱(1221年)である。幕府から朝廷への権力奪回を謀ったが破れ上皇は隠岐へそして通信はここ陸奥胆沢の地に流されたのです。それ以後河野家は没落 父広通も出家そして一遍も10歳で出家させられたのである。一世紀の相違があるが一遍が西行の詠んだここ稲瀬に来たのは不思議な縁である。実は一遍も西行に劣らずの歌僧なのです。然しこの二人の人格が全くの相反するのが実に面白いのです。捨聖 と呼ばれる一遍は念仏勧進に必要な仏法の所持物以外一切持たず心身総てをを断ち切り念仏を唱え一所不在の念仏勧進に生涯を送った。捨聖と呼ばれる所以である。これに比べ西行は出家はしたもの都 世間 花や自然への未練たっぷりで、ましてやんごとなき中宮との道ならぬ恋故の出家ならば尚更でした。 遊行までの数年間彼は京の都の廻をうろうろしているのである。言わば未練法師  と呼ばれても不思議ではない。その違いが歌に如実に現れている。

世の中を 捨てて捨てえぬ ここちして 都はなれぬ 我が身なりけり 西行
捨てやらで 心と世をば 嘆きけり 野にも山にも 住まれける身を 一遍

浮かれいづる 心は身にも 叶はねば 如何なりとも 如何にかはせん 西行
花は色 月は光と ながむれば 心はものを 思はざりけり      一遍
咲けば咲き 散るは己と 散る花の ことはりにこそ 身は成りにけり 一遍

白河の 関屋に月の 漏る影は 人の心を とむるなりけり     西行
ゆく人を 弥陀の誓いに 漏らさじと 名をこそとむれ 白河の関  一遍

総てを捨てきり衆人往生の念仏布教・念仏勧進の遊行を修行の手段とした一遍、個人的事情の厭世からの救済を念じて出家し、その発露に歌を修行の手段とした西行、理の一遍 情の西行の違いが見事に現れている。でも面白いのが出家時の彼らの対応の仕方である。人間臭く捨てきれぬ西行が出家の際には追いすがる4歳の愛娘を縁側から蹴落として情をすて切る。一方総てを捨てきったはずの一遍は我が妻子を捨てきれず同伴での遊行の旅に出ている有名な一遍聖絵がある。女連れでの修行僧は親鸞と一遍以外にいない。誠に人の心は分からない。殊に一遍は女人往生に力を注いでいる。布教には女心を捉える必要性を十分に認識した上での作戦だったのだろう。正に現代のマーケティングに相通じるものである。この相反する二人がここ稲瀬を尋ねるのは誠に不思議な縁である。二人ともこの稲瀬の渡しを越えなけば門岡山にも祖父通信のお墓にも行けなかったのです。
           稲瀬の渡し 其の2

阿弖流為の郷の碑 水沢市阿弖流為の広場
 後の奇妙な像は偉大な先人阿弖流為を顕彰すべくこの縁の地に建立した 時の権力に13年間に渡り対抗し続けた蝦夷の首長の怒りを抽象表現した 古代縄文人の末裔として特に勇壮な形の火炎土器をモチーフに肌は土器の色・髪の毛の火炎は怒髪を現し大きさは縄文人の上昇志向とアテルイの偉大さを表現したという(説明版)
 
思索する阿弖流為? 
束稲山山頂
田村麻呂が胆沢城を造築するにおよび 降るべきか降らざるべきか 悩む顔にみえませんか?
平泉在住の佐々木康慶氏作