日本最大円筒分水工 奥州市胆沢区 これは現在の物で寿庵の取水は2km程上流にある 胆沢川からの取水をこの円筒に流し込み水を平等に分ける装置である 水陸万頃の地とはいえ胆沢平野は昔から水不足の地である 江戸時代初期伊達政宗の家臣だったこの地の切支丹領主後藤寿庵はこの過酷な土地へ堰を開いたのです その代表的なのが壽庵堰であり他に茂井羅等がある 今や其の延長450kmに及ぶと云う  彼の功績にも拘わらず布教に寛大であった伊達政宗だが徳川幕府の切支丹禁止には逆らえず布教禁止せざるを得なかった 寿庵に改宗を進めたが彼は政宗には恩義を感じながらも拒否した➡
  国指定史蹟角塚古墳 日本最北の4~5世紀の前方後円墳 奥州市胆沢区
国道399号(安倍の道 泉北街道 銀色の道)
沿いにあり延暦の大戦の前300年も前にすでに大和朝廷の文明がこの地あたと言うことは意外でした 現在残る墳丘は大きく壊されていて原型を留めていないとのことである

 旧止止井神社跡  奥州市胆沢区 秋田への安部の道(仙北街道・銀色の道)沿い 
 寿庵堰水路と彫られている 寿庵開削の場所
後藤寿庵像 水沢カトリック教会
 片倉小十郎屋景綱等500の追ってにもかかわらず壽庵は南部潘に逃亡したと云う 寿庵を助けたかった政宗が逃亡させたとの説もあるが彼の所在は今も不明である 

上 後藤寿庵廟 水沢市福原(聖書の福音の原の意味)にある 壽庵は何と大正3年(1923)になって治水の功により従五位が授けられたのです 宮城県登米郡には供養碑がある 廟とあるが墓ではない 東磐井郡藤沢城主旧姓岩淵又五朗・奥州探題葛西氏の門閥で下総千葉氏を祖とするたどれば将門の流れをくむ 時代は下がり天正18年秀吉の小田原参陣の命に従わなかった葛西氏は領地没収され没落岩淵氏も又没落した 又五朗は一念発起志を立て西国に旅立った 九州でキリスト教を知ったが秀吉によるキリスト教禁止令により長崎から五島列島宇久島にのがれここで洗礼を受けた右へ
左 止止井神社跡は昔は縁起式内社胆沢七座の一つでしたが1830年ごろ現在の古城に遷座された その後もこの場所には唐傘松の他江戸時代の石碑が並ぶ
彼は「・・・ここに至り初めて神より永遠の救いを得る清らかな身に生まれ変わったが自分は禄を失った浪人の身だから本姓を名乗るのは祖先に対し恥ずべき事 生まれ変わったこの地を故郷として五嶋を姓としヨハネ(ラテン語ジョアン キリストに洗礼をした聖人)を名とし五嶋如安とした たまたま西洋国情に関心のあった伊達正宗との知遇をえて仙台藩士に取り立てられここ胆沢の地に1200石を得て赴任した その時政宗の命により後藤寿庵と改めた
 観音堂 水沢市福原
この観音堂は江戸初期からの『隠れ切支丹』を物語る貴重なお堂 当時切支丹禁令により福原小路にあった天主堂祀られていたマリア木造は焼却を命じられた
が密かに秘蔵して小堂を建て子安観音として参詣していたが後日発覚した その後マリア像は勿論観音像も見当たらなくなり幅三寸・長さ一尺の木の箱が安置されていた 箱の裏面には『干時天明二壬・寅十二月三十日造之佐々木氏・重郡(花押)』との墨書があり中に金属製の小箱に二個の切支丹メダイが入れてあった 信仰を捨てかねた住民が天明二年(1782)に密かに隠し伝えたメダイを箱に厳封して収め再び『隠れ切支丹』として礼拝をつづけたもの(説明板) 
稲瀬の渡し 其の6