坂上田村麻呂は802年(延暦21年)遂に桓武天皇の命を受け念願の奥の賊地に胆沢城を建設した 勿論蝦夷征討の軍事基地(鎮守府)であるが、それ以上に蝦夷を大和朝廷に組み込むための律令制拡大のための役所でもある事の方がもっと重要であった だから蝦夷管理は重要な仕事で 『それ辺城の体をなし夷俘を養うにより常に殺生を事とす 加えるに正月、5月の二節を以って俘饗に用いんがため狩猟の類、勝げて計うべからず。殺生のもと』 とある 正月と5月の年2回は禄を与え 肉料理と酒の饗宴で蝦夷を饗応して服属を求める儀式「俘饗」が行われていた事が876年(貞観18年)の鎮守府文書に載っている 造営後75年も経っているのにである  右端 の厨屋跡遺蹟からは猪 鹿の骨 桃の種が発掘されている 朝廷も結構蝦夷に気を使っているのが面白い 一辺675m四方の築地跡地の四つ角には遺跡胆沢城の標柱が立っている
      稲瀬の渡し 其の7
      
 
お八幡さま 胆沢城の鬼門北東の隅坂上田村麻呂が延暦20年九州宇佐八幡神社神霊を勧請して鎮守府八幡神社とした  頼義 義家 秀衡 頼朝 秀吉 正宗 明治天皇など時の権力者による厚い庇護を受けた 東北開拓の守護神
下右 赤い鎮守府八幡宮の鳥居の下にある石碑で 『鎮守府八幡社 従是?三十七?』と彫られている 高さ凡そ50cm
 下左 八幡鳥居をくぐり凡そ200m行くと追分石がある 「右ハ八マン・左ハか祢がさ紀(金ヶ崎)」と彫られている 高さ凡そ30cm

廚屋跡
 日本紀略延暦21年正月9日 『遺従三位坂上大宿禰田村麻呂造陸奥国胆沢城』 駿河・下野の浪人人夫4000人によって築城され 多賀城の鎮守府が胆沢城に移管された 
これにより陸奥蝦夷の地には大和朝廷の抜き難い楔が打込まれたのです 胆沢の地から移住した俘囚の申請文には
『己ら朝化に帰しより20年を経る。ようやく皇風に染まり兼ねて活計を得る。伏して編戸の民となり課役に従う事を望む(弘仁13年822年常陸国の俘囚吉弥侯部小槻麻呂)』
は実に象徴的な一文である 築城後20年次第に王化に染まり馴染んでいくかっての猛々しい蝦夷の姿はもはやない これからは差別との戦いが始まるのである
 
大正11年には国指定史跡に指定
上右 国指定史跡胆沢城碑 奥州市水沢区
陸奥開発経営の官府で宗教・文化・産業(漢字・儒教・仏教・陰陽道・医術鉱山冶金・農耕水利・機織・造船)はこの府から始まった 阿弖流為は此の堅固な城柵を見て村民の安泰の為投降下した
上左
 胆沢城鎮守府八幡神社の赤鳥居
胆沢城の南西を旧4号国道が斜めに横切っている  この細道は築地跡と言われる八幡神社参道
 
三代清水 胆沢城の北西には田村麻呂・頼義・義家3人の名将が利用したと伝える湧水池