羽黒大権現 アテルイ砦 水沢市
坂上田村麻呂がアテルイ征討の功を得たので出羽三山から羽黒権現を勧請した その後源 義家が再興して江刺の総鎮守として明治までと称していた 
 
藤原経清・清衡の居城豊田舘跡である 奥州市江刺区岩屋堂
北上川中流域の胆沢平野を見下ろす丘陵先端に築かれた平山城城跡は史跡公園
国道456号線と県道156号線の交差点にある
左 豊田舘跡の碑 豊田館    右  藤原清衡公生誕の碑
 豊田館
 ここ豊田館後3年の役で出羽清原同族の内紛の中に陸奥守源義家が介入してきて奥6郡を北3郡を清原家衡に南3郡を藤原(清原)清衡に分割和解したのであるがこの領地別けに不満を持った家衡が不在の清衡の豊田舘を急襲してその妻子郎党を皆殺しにし館を焼き払った後本拠地出羽の沼の柵に引き揚げたのです ここがその豊田館なのです その後清衡に味方した義家・清衡連合軍が出羽に攻め込みその後の本格的後3年の役になった所である 清原氏の内紛に義家を巧みに巻き込み後3年の役後奥六郡を含む奥州の支配者とった清衡である 平泉に移る前4年間を過した奥御館なのです  その後彼はここで平泉の構想を練ったのです 又この近くには戦乱で失われた者の鎮魂と平和の願いを込めた現在国宝紺紙金銀字一切経・大般若経巻30巻を制作した益沢院跡(現増沢地域)がある

下 延喜式内社鎭岡(ものみがおか)神社 
   江刺区五位塚国道456号線沿い
藤原経清 清衡により厚く庇護を受け天下泰平武運長久を祈念して荘園10町歩を奉納された 豊田館の近くにある
 
  人首丸墓碑 江刺区米里 
 伝承によれば人首丸はアテルイ(大武丸・悪路王)の息子という アテルイの死後人首丸は現在米里にある大森山(820m)に立て篭もり抵抗したが田村麻呂の弟とも息子とも言われる田原阿波守兼光によって捕縛され斬首されこの山中に埋葬されたのがこの碑と云う 地元では鬼っこの墓と呼ばれている 米里は旧人首村の名称で村には人首川も流れている
 兎に角山中で道に迷う恐れあり
 豊田城祉碑文 豊田館
長さ 210cm 幅50cm 厚さ40cm
安永3年(1774)銘の碑
  碑文の全訳

 『この地也 東西57歩(間) 南北39歩(間) 昔亘理権太夫経清の城であった 経清 前9年の役(厨川柵)で戦死し 其の子権太郎清衡勤王の勲あり奥六郡の領主としてここにいた その当時 北上川は豊田城の辺りを流れていて浮梁(船橋)と云う地名が今も残っている
 東北の方角に高清寺の跡があり東南に鎮岡神社と白旗の池があってこれらのことは封内風土記に詳しく書いてある 年を経るに従い土地の人でさえ忘れられるのでこの碑を建てて後の世まで伝えるものである 安永3年甲牛4月15日 江刺郡餅田邑人建之』  とある(説明板)
 
 
    稲瀬の渡し 其の9