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藤原朝臣経清公墳墓
左 舟橋は北上川がこの辺りを流れていた証である 大分現在より東寄りだ この道は東街道であり少し行けば五位塚遺跡である 豊田舘から数百mの距離にある |
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墳丘群は古くから五位塚と呼ばれ藤原清衡公及びその一族の墳墓と伝える
藤原 清衡公は康平5年(1062)9月27日 厨川柵・嫗戸柵にて安部貞任共々頼義・義家に討たれた亡父藤原 経清公と戦乱により命を落とした多くの衆生の菩提を弔うためlこの地に上円下方墳を築造せしめ清衡公が平泉に居を移行した後も地元住民が経清公の供養を永く続けた 往時は数十基あったという 現世安穏・後生得楽・乃至法界・平等利益 (説明板) |
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二清院 江刺区岩屋堂
藤原経清・清衡親子は江刺の歴史に偉大なる光芒を放つ武将でありこの偉業を永く顕彰するために二人の木像を江刺市が建立した |
稲瀬の渡
其の10
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安倍頼時の娘と結婚していた亘理權太夫藤原経清は頼義・義家軍から安倍軍に寝返った 然し安倍軍は厨川柵を破られて敗北し 経清は頼義により刃先を石にたたきつけた刃毀れした鈍刀で斬首された 彼の官位が従5位下だったので彼と彼の一族の供養碑を五位塚と呼ぶようになった 豊田館・鎭岡神社の近くにあるが古墳群のようであり墓所とはあるが真偽の程は不明の様だ |