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➡ 田村麻呂はアテルイの人となりをみて都へ連行して蝦夷地の戦後統治にはこの二人の協力が必要で陸奥に戻すべきと主張したが井の中の蛙の公家連中は「縦(ほしいままに)申請に依りて奥地に放還せらば所謂虎を養い手患いを遺すなり」と却下し河内の国椙山にて斬首してしまった(延暦21年8月13日・802) 現枚方市牧野沢には蝦夷塚と呼ばれる首塚があり二人の墓ではないかと言われてる 又京都の田村麻呂建立の清水寺には二人の慰霊碑がある |
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阿弖流為と母禮のお墓 片埜神社境内 古来言い伝えられてきた首塚の自然石 枚方市地域振興部文化観光課提供 |
♪とんがり帽子の時計台(鐘の鳴る丘)♪
作詞 菊田一夫・作曲 古関裕而 のこの歌を知るか方はもう多くはないでしょう 明治8年に建てられた赤いとんがり帽子の岩谷堂共立病院がモチーフなのです
菊田一夫は戦時中一か月程この人首川を挟み共立病院の向にある旅館に疎開してたのです そこから毎日このとんがり帽子の建物を眺めていたと云う 明治41年3月1日横浜生まれの彼は両親の離婚で何度も養子に出され三度目の養家が菊田姓だったのです 小学校卒業前に大阪の薬問屋へ丁稚奉公に出るなど幼少時にはどうにもならぬ不遇な時代が続いたのです 夜間の商業高校を通いながら何時しか詩心がめばえたようで詩の同人雑誌に寄稿したりしていた その後上京して萩原朔太郎・サトウハチロウ等の知遇を得て22歳の時古川ロッパの喜劇を書くようになった 昭和27年からの君の名はを執筆しそのラジオドラマの放送時間には女湯を空っぽにした大名作となった 彼の幼年時代の数奇な運命が「君の名は」となって儘ならぬ人生に翻弄される男女を描いたのだろうか(記念館栞)とある 尚岩谷堂共立病院は岩手県第一号の擬洋風建築の総合病院で明治21年以降磐井郡治安裁判所岩谷堂出張所・岩谷堂小学校・実科女学校・農事試験場胆沢分場・岩谷堂役場・江刺市役所庁舎等の変遷をへて現在県指定文化有形文化財で菊田一夫の資料等が展示されている
稲瀬の渡り 其の10A
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