稲瀬の渡し 北上市稲瀬町
北上市教育委員会によると 右の小山が男山でこの麓右岸の稲瀬町岩脇と左岸相去南浦とを結ぶ渡しだった 右奥の方が国見山である 恐らく極楽寺(国分寺に次ぐ官寺定額寺で平泉金色堂の250年も前に創建された一大仏教霊場)参詣の為に賑わったのだろう 左端に浅瀬が出張っているがそこが稲瀬の渡し跡である 向いの男山の奥に国指定史跡国見山(門岡山)廃寺(極楽寺)がある
 
男山から見下ろす和賀川(左)と北上川(右)と北上市街の眺めは絶景です
下左 極楽寺(国見山廃寺)本堂・中堂跡 国見山(門岡山)全体に各種経蔵・七間堂・金堂・講堂・五重塔跡等が点在していて全体で県指定史蹟を為している
下右 西行の歌は後ろの石に刻まれているがなんしろ彫られたのが天保12年(1841)と云うしろものなので風化してもはや判読は難い
 
 延喜式式内社偵岡神社(国見山神社)
延暦21年(802)坂上田村麻呂将軍胆沢城を築き胆沢郡を置かれたとき胆沢郡の東北の隅を偵岡としそこに神を鎮座させたと云う
稲瀬の渡し 其の11

 


北上川に架かる国見橋   北上市稲瀬町 国見山の麓 
川幅数百mもある北上川 舟運の大動脈で往時は江刺郡内でも相去 三ヵ尻 金ヵ瀬 八幡 安土呂井 瀬台野 下姉体 6日入 目呂木の9箇所の河湊があった その数だけ渡しもあったろう
 橋の背後の山が国見山 
かど岡山は今の国見山を指す
陸奥の かと岡山の ほととぎす 稲瀬の渡し かけてなくらん
  ➡ 大同3年(808)胆沢郡を分けて江刺郡を建てられ弘仁2年(811)には江刺郡の北へ和賀郡が置かれたのです さらに文徳天皇は天安元年(857)偵岡神社の遥拝所を国見山に建て神社としその別当を極楽寺の役僧に掌らせたのです この時から極楽寺は政府経営の官寺となり僧が祝詞を奏し舞楽も行い神社を護り続けたのです 延喜5年(9059醍醐天皇が式の編纂を命じ延長5年(927)脱稿したその中に神明帳があり陸奥国江刺郡偵岡神社も官社に指定されたのです(説明板)