極楽寺鎌倉時代の板碑群
江刺に流された通信の居宅は上の極楽寺であった 県指定史跡の石碑八基がある 彼は出家し観光と号し隠岐に流された後鳥羽上皇を偲び庵を隠岐院と称した 1289年6月19日68歳で入滅 彼は無墓碑を遺言としたが極楽寺は上円下方墳を築き手厚く葬ったと云う 彼は父の仇西寂を生け捕りにして父の墓所に突き出した時 仇が父の墓所に小便をしたので大恥をかいて以来墓は造らぬとしたらしい |
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県指定史跡ひじり塚 河野道信の墓の碑 北上市稲瀬町
二又の松の木ある所に上円下方の形が微かに分かる 通称聖塚
棄て果てて 身はなきものと 思ひにし
寒さきぬれば 風ぞみにしむ
自ずから あひ遇うときも 別れても
一人はおなじ 一人なりけり |
一遍聖絵の土饅頭 左下の二股の松の根元が土饅頭で上の画像の20人の僧侶に囲まれた土饅頭に匹敵している 今はその形は土饅頭の形だが当初は上円下方墳なのです
儚なしな しはしかはねの 朽ぬほと 野原の土は よそにみえけり
辞世の句
旅衣 木の根茅の根 いずくにか 身の捨てられぬ ところあるべき |
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左上下
画像2つは北上市にある旧南部藩・伊達藩の領境を示す塚である
上の塚
南部藩領の塚
下の塚
伊達藩領を示す塚である
現存する領境塚は極めて珍しく国指定史跡である 両藩は120もの大塚とその間に更に小塚を設置したという 事に重要な地点は挟塚といって特別2つの塚を設置したという
稲瀬の渡
其の12
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展勝公園北上夜曲の歌碑 北上市
国見山・男山の麓を流れる北上川のその近くに展勝地公園がありその敷地内にある メロディも流れる 何時聞いても名曲は心に滲みますね 日本さくら名勝100選 みちのく3大さくら名勝 あるいて楽しいいさくら名勝の地等桜の名勝の地である 展望の効いた名勝・景勝の地といういみを込めて天勝と名ずけた 碑の後ろに少し見えるのが北上川 |
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県指定史跡河野道信の墓
一遍が江刺に来たのは1281年 20人の門徒と共に墓所に来たが花の無い時節のため薄の穂をとって墓をめぐり経をあげ念仏を唱え弔ったと言う 時宗最高の法要『すすき念仏』はここから始まったと言う 丁度芒が生えていました |
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左 国指定史跡
樺山遺跡
北上市稲瀬町
国見山近くには4〜5千年前の縄文中期の環状列石(立石をともなうストーンサークル)や竪穴住居跡が発掘された
右上下
牛午(うしうま)伝説
この伊達・南部の境界を決めるのに伊達側はお互いに午に乗って来て出会った地点を藩境とする手紙を南部に送ったが南部側は午を牛と読み違えて馬でかっけ付けた伊達と出会った所が相去のこの地点だったという面白い伝説がある |
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