岩手の淵       人知れぬ 袖に涙を しぼりせば いはでの渕の 水やまさらん     宗行集  
大日本地名辞書(吉田東伍)に「今の盛岡を古人『岩手の津』ともいへるに合考すべし。盛風記云天正19年の秋、信直公より上衆の案内として、北尾張を『岩手の津』まで遣わし玉ふ、氏郷を始め諸将岩手の津に着陣、九戸への行程14里、路の嶮易を尋て評議を究め奥へ下り玉ふ」と記している。九戸城攻め軍議が生々しいそこで『津』を辞書で引いてみると『みなと 船着場 湊を控えて人の多く集まるところ 港町』とあり、淵は『川などの水の深く淀んでいるところ』とある(日本語大辞典 講談社)。 内陸高原にありながら盛岡はこの表現にぴったりの町なのです。盛岡は町の中心が大河の十字路によって仕切られていると言う珍しい町で古来『岩手津・岩手の淵』と呼ばれたのでしょう。盛岡市史によると北上川は縦の「Y」軸で、雫石川(厨川)・中津川が横の「X」軸の座標に例えられると言う。そして盛岡の開発・発展はその交差軸を中心に時計回りで発展してきたのだと言う。先ずその初期は太田方八丁遺跡のある(−X・−Y)座標面である。陸奥国開拓の終着・岩手郡 ここは盛岡市の母体となった座標面で数多くの古墳・遺跡が有った。然しが高速道路・新興流通基地等の開発で殆ど残っていないという。県道172号・16号の交差点に『上えぞ森』(大田蝦夷森古墳群)と言うバス停があるが、その中で何と言っても圧巻は国指定史跡紫波城遺跡である。803年(延暦22年)坂上田村磨によって造営された最北の城柵で、これにより岩手郡迄が完全に律令国家の支配下に組み込まれたのである。所が僅かその9年後にはこの紫波城が廃棄されてしまうのである。813年(弘仁4年)文屋綿麻呂は約8キロ南東の徳丹城へと移転せざるを得なかった。これは流石の田村磨も盛岡の河の怖さまでは計算出来なかった様だ。その要因が雫石川の度重なる洪水と氾濫であった事からも盛岡が「岩手の淵・岩手の津」と呼ばれた意味が分かるでしょう。更にそれから凡そ150年後今度は奥六郡を安倍氏が俘囚の長として君臨することになる。安倍氏最重要拠点は衣川にある衣川柵であったが次に重要な基地は北限となるここ厨川柵である。そこは雫石川の北岸であり(-X・Y)座標面にあたる。安倍氏最後のより所である安倍館・厨川柵・姥戸柵があった所です。地図を見ると分かるのだが南〜西は雫石川・東は北上川が流れ北の背後は蝦夷の山々と言う真に堅固な要塞にふさわしい地形である。現在も安倍館跡から北上川を覗けば数十m以上の断崖絶壁。  勿論雫石川も負けず劣らずの急流・水量・川幅で天然の『岩手の淵・岩手の津』に囲まれた要害の地だったのです。然し残念ながら頼義義家・清原連合軍により1062年(康平5年)さしもの厨川柵は破られてしまった。その殺戮は安倍貞任を始め婦女子子供にいたるまで凄惨を究めた言う。そして現岩手公園となる盛岡城着工開始は慶長2年(1598年)。最後まで秀吉に抵抗した九戸政実の乱を制した帰路、蒲生氏郷・浅野長政等は居城を三戸から盛岡不来方への築城を南部信直・利直に薦めた事による。元々南部氏は居城を紫波郡の高水寺城(元斯波氏の居城)に置く事に決めていたが2代目南部利直は彼等の進言に従い(X・Y)座標面にあたる不来方に築城を決意した。西側に大河北上川 南側はすぐ前が中津川と言うこれまた天然の要害に守られていたががそれだけに治水工事は困難を極め、一応の完成迄12年を要したと言う。然しその後も度々洪水に見舞われそのつど福岡城(九戸城)や郡山(紫波)に居城を移していて本格的に入城し幕末まで居城したのは1636年(寛永13年)南部重直以降と言う。記録に残る北上川の洪水発生は9世紀1回・11世紀1回・12世紀1回13世紀1回15世紀3回・17世紀39回・18世紀67回・19世紀76回20世紀23回(1948年まで)ある。時代が下るほど増えるのは当たり前だが、これほどの天然の要塞をなす河川を持つ城はないでしょう。所で利直は前田利家から一字をもらい、更に蒲生氏郷の養妹と結婚していたので京風の橋や近江商人風情が今も残されている魅力的町である。蒲生氏は近江商人・石組築城の穴太衆で有名な近江の出である。そして最後に(X・ーY)座標面にあり「岩手の津」に最も相応しいのが新山河岸である(現明治橋辺り)。ここは北上川に雫石川・中津川が注ぐすぐ下にある船着場で北上川水運の出発点の湊であり、奥州街道陸運の重要地点で経済・流通・物流の中心地であったがその水量と水深と川幅のため橋が架けられず対岸の仙北町へは長く船橋と利用していたと言う。これが有名な新山舟橋で越中の船橋 越前の船橋と並び3大船橋と言われたと言う。盛岡は正に「岩手の津」「岩手の淵」そのものなのです。(平成17年7月28日)(参考 岩手県の地名 平凡社 岩手県の歴史 河出書房 盛岡市史 陸奥話記 鰹ャ学館)
     右上  国指定史跡 大和朝廷最北の柵城 紫波城碑
     右下  国指定史跡 大和朝廷最後の柵城
 徳丹城碑