岩手山を望む紫波城 外郭南門は5間の正門 北に雫石川 東に北上川に守られた要害の地に803年坂上田村麻呂は遂に最北の古代柵城造営に成功し陸奥の奥深くまで律令体制に組み込んだのです 日本武尊から凡そ700年と言う長い年月を要して盛岡までが表面上は大和朝廷の支配下におかれたのです 今ここは古代公園として整備されつつありますが北側はすぐに雫石川で岩手の淵なのです 昔ながらの工法で造られたこの立派な築地塀は見事である ➡   3代目征夷大将軍文屋綿麻呂によって812年に建設された律令制国家最後の柵城である 度々洪水に見舞われた紫波城をすて南の矢巾町に造営された 紫波城の3分の1と云う史上最小の規模である  日本後記には「志波城は河浜に近くしばしば洪水を被るので便地に遷し立てるまでの間取り敢えず2000人を留め置いて守衛に当てさせ移築したなら1000人だけ残して他は皆解却すべし」とあり 更に宏仁3年4月2日太政官府には「鎮兵の数減定既に完了した」とあり規模・人員が縮小してる事が分かる

徳丹城周辺には多くの古墳群がある 其の代表が藤沢荻森古墳群だ 
矢巾町歴史民族資料館

左 徳丹城跡
岩出の淵
其の2


 








 
➡ 底幅2・4m 高4.5m 縦930m 横840m の築地が張り巡らされていた 廻りには2000棟もの兵舎があった 昭和59年には国史跡指定され古代公園として整備されている 西側は東北自動車道で分断されている 5間一戸の外郭南門とと60m間隔で櫓も設置されていた  今にも古代兵士・蝦夷が現れそうだ 古代の生き生きしたパイオニアそのもだ 弘仁2年閏12月北側を流れる雫石川の氾濫を原因として移転をよぎなくされ矢巾町の徳丹城に移転する   紫波城築地塀と櫓   
徳丹城から発掘された蝦夷の木製冑(かぶと) 矢巾町歴史民族資料館・矢巾町教育委員会のご協力により提供戴いた画像を掲載  近代兵器を持った朝廷軍と戦った蝦夷の涙ぐましい努力の跡を忍ばせます
 徳丹城遺跡(参考 国指定史跡 徳丹城史 矢巾町教育委員会)
 
町名に今も残る安倍館
南に雫石川 東に北上川の岩出の淵に守られた堅固な要害の地安倍舘程我々の想力を掻き立てる所は無いのです 蝦夷最後の抵抗の地である 柵の中の男女数千人の悲劇は正に筆舌に尽くせぬほどの惨劇を究めたと言う 岩手県南部の磐井郡の小松・河崎の柵 胆沢郡の大麻生野・瀬原・鳥海の柵 和賀郡の黒沢尻柵 稗貫郡の鶴脛の柵 志波郡の比与鳥の柵そして最北のここ貞任の拠点岩手郡の姥戸・厨川の柵安倍氏は滅亡した   其の長は六尺有余 腰囲は七尺四寸・容貌魁偉・皮膚肥白と陸奥話記に記された安倍貞任の面影は町名に残すのみだ 
右上 今も濠跡が残る安部館遺蹟跡中世は鎌倉御家人工藤氏の居城
右 敵見が森稲荷神社
 安倍軍が櫓を組んで敵を見張った所 前9年2丁目バス停の前にある