北上川から見た安倍舘 広い川幅・豊かな水量・高い岸壁を誇る安倍舘は難攻不落の柵城です 陸奥話記には『河岸は三丈有余、壁立して途無し』とある 
下右 濠について陸奥話記には『河と柵との間に濠を堀りその底には刀を逆さに立て地には鉄の礫を蒔き柵の下に来た者には石投げつけどうにか近くに来た者には煮え湯をかけの登って来た者には利刃を振るってこれを殺した』とある 深い濠跡が今だに残る 婦女子子供の阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえそうです
 安倍舘内にある厨川神社
左下 
 安倍舘内にある貞任・宗任神社
厨川柵陸奥話記に『件の柵、西北は大沢、二面は河を阻つ。河岸は3丈有余、壁立して途無し。其の内に柵を築き、自ら固くす。柵の上に楼櫓を構へて、鋭卆之に居る。河と柵との間、亦隍を掘る。隍の底に倒に刃を立て、地の上に鉄刃を蒔く。遠き者を弩を発して之を射、近き者をば石を投げて之を打つ。適柵の下に到る者をば沸騰を建てて之に注ぎ利刃を振るいひて之を殺す。官軍到着の時、楼上の兵、官軍を招きて曰く『戦い来たれ』と。稚き女数十人、楼に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪む。16日卯の時自り、攻め戦ふ。終日通夜積弩乱発し、矢石雨降るが如し。城中固く守り。之を抜かれず。官軍の死する者数百人なり」とあり其の堅固さが生々しいがその後頼義は八幡大菩薩に祈願して「暴風忽ち起こり煙焔飛ぶが如く飛焔風に従い矢の羽に着く火責めで柵を攻略して地獄絵の修羅場となり城中の男女数千人同音に悲泣す 賊徒潰乱し、或いは身を碧潭に投じ、或いは首を白刃に刎ぬ。「死せんことを必して生きんとする心莫し」。武則軍士に告げて曰く「囲みを開きて賊衆を出すべし」と。賊徒忽ち逃げんとするここをお越し、戦わずして走る。官軍横撃して悉くこれを殺す」とある。➡
  天昌寺 この辺りが厨川柵の中心地であったと言う かっては貞任の祈願所だったという古刹であるが 嫗戸柵との説もある 『厨川・嫗戸の二柵に到る 相去ること七、八町許りなり』 と陸奥話記にあるが安倍舘天昌寺はまさに記述通りの距離である 安倍氏滅亡後岩手郡33郡を工藤小次郎行光が軍功により拝命したので工藤氏がこの寺を譲られた 1600年ごろ工藤氏は南部氏の家臣となり栗谷川氏と改名し寺名も天照・天正・天昌寺となったようだ(寺由来板)  
正にこの地は1000年前の地獄絵が繰り広げられた地なのです 今その険しさは皆無だが僅かに道路の高低が其の名残留めている 天昌寺が柵の跡地とされそこに下の案内書が立っている この近辺に恐らく姥戸柵もあった模様である ここで経清は鈍刀で斬首 貞任も惨殺され二人の首は京に運ばれ晒された 宗任・正任は投降して伊予の国に流されさらにそこから北九州へと移封された 九州松浦党・ 国会議員若手の安倍晋太郎晋三親子はその末裔なのである  天昌寺にある厨川柵由来板 岩出の淵 其の3