このように蝦夷最深部にある山がこんなに多くの都人に詠まれるとは真に不思議だ。山頂が岩手郡滝沢村・雫石町・松尾村・西根町の岩手郡4町村の境界点となっている。また早池峰山・姫神山と共に岩手三山と呼ばれる岩手山は盛岡市北西約13kmにある標高2039mの県内最高峰であり富士山が国民の象徴的存在同様県民の象徴であり心の拠り所でもある。だから愛称も岩鷲山・岩手富士・南部富士・南部片富士・霧山岳・奥の富士・等と多様である。「岩手郡なる諸山に秀でたる高山なれば、即郡の名を負て岩手山とはいふ也」と奥々風土記に載っている。岩手山信仰は山そのものがご神体となっていてる自然信仰に坂上田村磨による国家鎮護の三尊阿弥陀を安置(807年)し他に薬師・観音信仰などが加わり岩鷲山大権現となり地元の信仰を集める。1872年まで女人禁制の山であった。 所で岩手三山の岩手山・姫神山・早池峰山は男女の三角関係伝説があり面白い。岩手山は姫神山と夫婦だったが次第に早池峰の女神に心奪われてしまった。彼女は北上山脈最高峰の山だけに想いは募るばかりで、女房の姫神の箸の上げ下ろしまで嫌になったと言う。岩手山は送仙山の神に「一夜の内に我が目の届かぬところに送り出せ」と命じた。姫は夫の心変わりに泣く泣く岩手山から去るがその足取りは重く遅々として進まない。翌朝岩手山が目を覚ますと姫神は未だ岩手山の東の手の届く所に聳えていた。怒り狂った岩手山は大爆発を起こし噴煙・溶岩を吹き上げて暴れまくった と言う。 その数近世になってからでも1686年〜1719年の33年間に9回も暴れまくっている。今も「焼け走り」と呼ばれる溶岩流の跡があり260年以上経ても草木1本生えてこないのです。これは科学者の間でも極めて珍しいらしい現象らしい。2003年にも火山性地震が長期に多発したため登山禁止で近ずくべからずの御触れが出たのです。今も活火山であり姫神山が目の前に見える限り彼は何時暴れるか分からない山なのだ。にもかかわらず地元の岩手山人気は抜群で郷土の歌人石川啄木も「歌集一握の砂」に

  二日前に 山の絵見しが 今朝になりて にはかに恋し ふるさとの山
  汽車の窓 はるかに北に ふるさとの 山見え来れば 襟を正すも
 ふるさとの 山に向かいて 言う事なし ふるさとの山は ありがたきかな
  目になれし 山にはあれど 秋来れば 神や住まむと かしこみて見る
  神無月 岩手の山の 初雪の 眉にせまりし 朝を思ひぬ
  岩手山 秋はふもとの 三方の 野に満つる虫 何と聴くらむ
  かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川


と『石をもて追われる如く出た』故郷の山を複雑な気持ちで切々と歌っている。残雪が鷲に似てる所から岩鷲山(がんじゅさん)と呼ばれ、日本百名山で深田久弥氏は『日本の汽車の窓から仰ぐ山の姿の中でもっとも見事だ。盛岡の景色は岩手山によって生きている』と記している。新幹線もさることながら東北自動車道はずっと岩手山寄りを通るのでその素晴らしい容姿が手の届く真近に見える。晴れて空気が乾いていれば最高だ。
(平成17年7月18日) (参考岩手山 博品社 岩手県の地名 平凡社)
 巌鷲山と彫られた常夜灯 
盛岡市内の北上川に架かる夕顔瀬橋のたもとにある 高さも2m以上の立派で大きな石灯籠である
         岩手の山 其の2

                

夕顔瀬橋から見た北上川と岩手山
この優雅な名の由来は橋の上流にある厨川柵の前9年の役で安倍軍は勢力不足を補うために夕顔に鎧兜をかぶせ柵内に並べたが多勢に無勢に源軍の火攻めにあい柵は焼け落ちこの人形も焼けて下流へと流されていった そしてこの辺りに多数の人形で埋め尽くされたのです その故事にちなみ北上川の右岸を夕顔瀬と呼ぶようになり橋を夕顔瀬橋と呼ぶようになったとの事