磐井の里     もろ人の 磐井の里に 円居して ともに千歳と ふへきなりけり      夫木和歌抄
   建部清庵の像 一関市 
江戸中期蘭学の発展に寄与した天明2年(1712)一関生まれの医者 蘭学者杉田玄白とは深い親交を持ち5男由甫を玄白の養子に出して杉田伯玄と変えて玄白の娘扇と結婚している それにしても岩手県は何故かくも多くの偉人を排出するのでしょうか  
一関に 過ぎたるものが 二つある 
            時の太鼓に 建部清庵
当時時を知らせる太鼓は京都御所・将軍家・御三家に限られていたが僅か3万石の小藩が許可されていたので参勤交代一関を通る他国からは羨望の眼で見られていた

大槻三賢人の像 一関駅前 
大槻家は広島の頼家(春水・山陽・三樹)とともに西の頼家・東の大槻家と称され連綿と学者を輩出した一族なのだ  特に蘭医学者玄沢・磐渓(儒学者・仙台藩校養賢堂学頭)・文彦(国語学者で16年かけて我国最初の近代辞書言海・改訂版大言海)の他その家族親族の多くが学者と云う 殊に清庵の門弟玄沢は建部清庵から医学を学び後に江戸で杉田玄白・前野良沢の下で修行し江戸に日本最初の蘭学塾芝蘭堂を開き蘭学階梯・重訂解体新書などの著書がある 玄白と良沢から一字を得て玄沢と称した 日本に最初にビールを照会したのも大槻玄沢である(著書蘭説弁惑)
 岩手県南部にあり宮城県境に接っし 北上川を挟み東に東磐井郡(東山町 河崎村 藤沢町 大東町 千厩町 室根村)、西には西磐井郡(衣川村 平泉町 花泉町)に古代のその名を留めている。市制をしく一ノ関市には郡はないが勿論磐井の里の中心であり、水陸万頃の地の入り口にあたり蝦夷最後の防衛線のため蝦夷と官軍の英雄が死闘を演じた地でもあるのだ。2005年9月には東磐井郡が新一関市となり岩手県第2の人口となっている。 和名抄(和名類聚抄931年承平元年〜5年 源 順)には「伊波井」とすでに記されていて、その初見は延喜式神名帳兵部省式に古代官道 東山道の驛家「磐井 白鳥 胆沢 岩基(いわて)各5疋」とあり、磐井驛は現一ノ関市赤萩辺りに比定されている。又日本後記812年 弘仁3年9月3日条には「陸奥国遠田郡の人勲七等竹城公金弓、勲八等黒田竹城公継足、勲九等白石公真山等男女122人に陸奥磐井臣を賜う」とある。建郡は南隣の栗原郡が767年(神護景雲元年)北隣の胆沢郡が804年(延暦23年)から見ると、奈良時代末から平安時代初めころではないかと思われる。現一ノ関市の名の由来も用水利用の「堰」(有名な照井堰が厳美渓上流にある)とも 軍事防衛上の「関」からとも言われてるが定かでない。今も一ノ関 二ノ関 三ノ関の字名が残っているのは面白いが、確かに安倍氏の本丸衣川柵防衛には関が2つ3つあっても可笑しくはなかったろう。 磐井の里一ノ関の歴史は古くは田村麻呂の悪路王征伐 安倍貞任・藤原経清と源 頼義・義家とが死闘を演じた前九年の役 そして近世芭蕉の陸奥の旅まで中々バラエティーに富んでいるのだが、惜しむらくは目と鼻の先に平泉・衣川と言う世界歴史遺産に立候補出来るほどの国宝的観光地が控えているため余り注目されず素通りされるのは惜しいことである。
磐井の里を東西に流れ一ノ関で北上川に注ぐ磐井川中流にある厳美渓は国指定名勝天然記念物であり訪れた方も多いと思いますが、その近くにある蝦夷の悲しい歴史を刻む達谷窟 小松の柵 石坂の柵 北上川東部河崎の柵 黄海の古戦場 最北の芭蕉宿泊の地二夜庵 恐らく殆何方も訪ねる事のない日本刀発祥の地舞草神社 何故かあの浅野内匠頭の供養碑が磐井の里にあるのか そして青春の苦悩島崎藤村の文学館等、実に地味だが実に深い歴史のある磐井の里一ノ関市なのである。そして近隣には薄衣 歌書等の魅力的地名の反面、鬼死骸 死人沢 一首坂 骨寺村 人首(ひとかべ) 人首川等蝦夷の悲劇の地らしき地名も多い。衣川柵の防衛線である宮城県の玉造川 そしてここ磐井川 最後に衣川を破られた蝦夷の末裔は崩壊の一途を辿のである。  一関の俗謡に「一関に過ぎたるものが2つある 時の太鼓に建部清庵」と云うのがるが2つどころか学者・文人・賢人の足跡や史跡・遺跡の文化財が地味ではあるが通には垂涎の地が無数にあるのです。所で同じ磐井でも九州の磐井とは全く別物である。九州の磐井は筑紫君磐井で人の名前である。彼は大和朝廷に刃向った人物だが継体天皇の差し向けた物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって578年11月に滅ぼされた古代の内乱の一方の当時者である。有名な磐井の乱の首謀者であ 
(平成16年7月25日) (参考 岩手県の地名 平凡社・東北の地名 木の森・日本地名大辞典 角川書店・史跡・文化財めぐりMap 萩荘文化財研究会・一関藩 褐サ代書館 )