関流和算学者千葉胤秀顕彰稗  祥雲寺
 江戸に出て関流正統六伝 長谷川寛の門に入って修行してて数術抜群から藩主邦顕公から士籍に取り立てられ算術師範役となり算学道場を道場を開き数千の門弟を教育して和算の興隆に勤めた 
国指定史跡逹谷の窟堂 厳美渓から県道31号を凡そ4km北上して平泉町に入って直ぐの大田川沿いにある 平泉もあと12kmで征夷大将軍坂上田村麻呂東征の霊蹟で殺傷禁断の地である 最初の記述は吾妻鏡の文治5年{1189年)9月28日の条に記載されてる 窟堂縁起には沙門堂縁起の一部を記載すると「この巌に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等、暴虐の限りを尽くした蝦夷の悪路王、赤頭、高丸等を延暦20年(801年)桓武天皇の詔を奉じた征夷大将軍坂上田村麻呂公が激戦の末征伐しました。大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台造りを模ね、九間4面の精舎を創建し、百八体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし毘沙門堂(別名窟堂と名づけました・・・・」と田村麻呂ベタ褒めである    岸面大仏 達谷の窟堂 
身の丈33m全国5指にはいる北限の磨崖仏 前9年・後3年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するため源義家が馬上より弓張で彫り付けたと言う 

左下 弁天堂 
逹谷窟毘沙門堂の前の蝦蟇ガ池の上に建つ 昔から財宝授ける福徳神として「弁天には銭を上げて拝め」といはれ資産家の信仰が厚い 知恵の神・技芸の神だが悋気な天女のため縁切りの願が叶うと伝えられている 仲の良い夫婦・恋人は共に参らぬ習わしである と云う 
  重要文化財14世紀骨寺村在家地図
 中尊寺大長寿院所蔵 
骨寺村は藤原氏縁の荘園で中尊寺経堂別当自在坊蓮光の所領 この絵図のままの景観を今に伝えるのが一関市厳美町本寺地区なのです
 現在の本寺地区航空写真 
左の14世紀当時の地図と同じ地名と形状が今に残るユニークな地であり国指定重要文化的景観地区に指定されている貴重な地区なのです 川嶋印刷㈱の許可を得て掲載しました


古来骨寺村呼ばれていたが今は本寺地区となっている こう言う個性的名は是非遺したいものです

磐井の里 其の2





左  骨寺村からの駒ケ岳(須川岳)を望む 左上の絵図には祝ハ井河(磐井川)とか骨寺跡とか六所宮(現駒形根神社)山王石窟田三反等現在と同じ名のままなのには驚きました この異様な村名は骨寺と云うお寺からなのだが当時は飢餓・疫病・戦等で死は日常茶飯事でその屍を埋葬した所なのでしょう 今骨寺はない本寺地区である
時の太鼓 迫街道長昌寺
運悪く法要があり撮影が出来ず一ノ関文化マップ史跡と文化財パンフからコピーした 昔長昌寺辺りは鬼死骸村呼ばれていた
東北の地名・岩手(木の森)によると「東山道は萩の馬場(磐井驛家跡)から市野々川を渡り谷起島(小松柵)で二つに分かれ一つは磐井川を渡り石坂柵を通り五串(厳美)古館から大田川上流達谷に入り同川筋を下って平泉にはいるもの・・・」とあるのです とすればこの毘沙門堂正面入り口前の県道31号は田村麻呂・頼義・義家・頼朝他多くの歴史上の人物が通った道なのかもしれない 
近くにある厳美渓  
 一ノ関市の西部国道342号 所謂院内街道沿いにある磐井川渓谷で凡そ2kmある

国指定名勝天然記念物 厳美渓  
 石英安山岩質凝灰岩質層かる河岸段丘の河床が長年の侵食により渓谷をなし数多い瀑布と甌穴が変化のある景観を呈してい
 
早春の旧骨寺村