石坂の柵跡擬定地   小松の柵の跡地  磐井川と久保川が合流する地点で複雑な地形である
留守政景の墓 この地にはかつて菩提寺大安寺があったところ 政景は伊達晴宗の三男で政宗の叔父にあたる
左上 留守氏の墓が何故一関にあるのか不思議であった 然も東北本線と直ぐ後が東北新幹線の間の狭隘な高台で踏み切りも無い線路を越える危険な場所なのです さらに墓石も御覧のような自然石という粗末な物なのです 留守氏と言えば文治5年(1189)頼朝の奥州征伐で戦後の頼朝の代わりに留守職に任ぜられ奥州の指揮命令権を付与された伊沢左近将家景を祖とする名門であった 二代目家元からその職名から留守氏と改正したがが職権は形骸化して名字のみとなった  その後尊氏と直義の騒乱が陸奥まで及び畠山氏と吉良氏の岩切城合戦となり留守氏が加担した畠山氏が敗れ留守氏も一気に没落する その後相続争いがあり伊達氏の支援を受けその後伊達氏の支配下に入り伊達晴宗三男政景を養子に迎えて留守氏18代とした 田村氏同様伊達氏とは縁が深いのです
左下 元田村潘橋田原処刑場にある豊吉の墓 
何と東北最初の人体解剖の記念碑なのです 江戸の蘭医学者杉田玄白の人体解剖から14年後の天明5年(1785)一関潘医菊池崇徳以下16名による さすが賢人の里一関らしく初代潘医建部清庵の流れを汲む地である証でしょう 豊吉の遺体は手厚く葬られ建碑の由来として人体解剖の業績を刻文した墓碑を兼ねた墓石が立てられた
 
磐井の里一ノ関の西部 磐井川と久保川の合流点は古代東山道の磐井驛家の擬定地とされている 今この辺りは谷起島と呼ばれ安倍氏の前線基地小松柵跡に比定されている 又その磐井川の北側の赤萩福泉辺りが石坂柵があったとされている 1057年(天喜5年)安倍貞任に大敗を喫した官軍は雌伏5年ついに出羽清原氏説得に成功した 1062年(康平5年)8月9日清原軍10000 官軍3000が栗原郡屯岡に集結 同17日には小松柵攻撃の為萩の馬場に陣を構えたのである 安倍軍は大敗を喫し石坂柵に逃げ延びたが清原氏の徹底追尾のためついにこの柵も手放し最後の柵衣河の柵へと敗走したのである 石坂柵の標柱は国道342号の十字路にあるが小松柵は久保川の橋のたもとにあるが分かり難い 木戸口は小松柵の入り口にあたる所だ 又柵の西部には木戸脇と言う標柱も立っていて激戦の跡が偲ばれる 陸奥話記には「賊衆驚き騒ぎ自ずから互いに討ち合い死傷甚だ多し 遂に高梨宿並びに石坂柵を棄てて衣河関に入る 歩騎迷惑して巌に放たれて谷に墜つ 三十余町の程幣亡せる人馬宛かも乱麻の如し肝胆地にまみれ膏膩野を潤す」とあるのです   小松柵の入り口とされている 

上左 「くだんの柵東南に深流の碧潭を帯び西北に碧立の青巌を負う 歩騎ともに泥む・・・剣を以って岸を穿ち鉾を杖きて巌を登る」と(陸奥話記)に記述されてる 確かに今も小松柵跡は久保川淵にあり記述通りの急峻な地で磐井川と久保川が交わる谷起島と云う要害の地であった

 五輪塔
地元の老人の話には下手な歴史家よりも信憑性がある 小松柵に破れた安倍宗任の叔父僧侶の良照軍の戦死兵士30数名が埋葬されたと言う五輪塚 良照等は衣河柵へ逃げ帰ったのだと言う

磐井の里 其の3
     

一関市指定史跡 盗賊豊吉の墓
処刑された豊吉は一関藩医により実体顕彰で人体解剖され大成功を収めた