衣川村史編纂室の収集によると「衣川」「衣の関」「衣の里」の歌は70首におよび詠み人も61名になるそうです。其の中で都から地方官として赴任の経験者が10名である。そして現在の衣川村に実際に足を運び歌を詠んだのは西行ただ一人と言う。つまり60名の方は遠く都や衣川村以外の所からイメージして衣川を詠んだのである。其の中で一番古いのが後撰和歌集で読み人知らずで952年頃 次が元真集(藤原元真)で966年頃 3番目が古今和歌六帖(紀貫之)で980年前後とある。そして実際足を運んだ西行が詠んだのは20人目の28首目で1144年(天養元年)である。彼は2度も遥かな陸奥に来ていて、その200年前に陸奥の歌枕を歩いた能因の足跡を追っての旅である。27歳の時平泉・衣川にやってきた彼は金色堂・無量光院をはじめとする堂塔伽藍には目もくれず真っ先に来たのが衣川だったのです。その証が次の詞書です。

   10月12日、平泉にまかり着きたりたるに、雪降り、嵐激しく、
 ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくて、まかりむかいて、
   見けり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたる事柄、やう変わりて
   ものを見る心地しけり。汀凍りてとりわき冴えければ

  
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河見に 来る今日しも 

 衣河 汀によりて 立つなみは 岸のまつがね あらふなりけり

物欲・権力にとんと無頓着だった西行のエピソードがある。1186年(文治2年)69歳で2度目の陸奥行きの途中鎌倉殿 頼朝と歓談、帰りに銀製の猫の土産を送られたが門を出るとすぐに近くで遊んでいた子供に上げてしまったと言う。平家びいきの所為と言った方が良いかも知れないが。衣川は中流で北股川と南股川と言う二つの川が合流して衣川と呼ばれる。その間にあるのが安部氏4代の館 西館と東舘である。
          衣河 其の2      
衣川の初見は789年(延暦8年)続日本記に載っていて大変古いのです。「癸丑 征東将軍(紀古佐美)に勅して曰く、比来の奏状を省みて官軍進まず、なお衣川に滞る事を知りぬ」とあり、前九年の役の270年前からこの川は軍事上の重要地点だったのです。更に彼は泣き言のような事を奏上している。「臣等遠く蝦夷を攻めんと欲すれども、糧を運ぶに難あり。それ玉造騫より衣川営(たむろ)に至るなで4日 輜重して受納すること2日なり。しかるときは則ち往還10日なり。衣川より子波(志波)の地に至るまで行程はたとへば6日 輜重して往還14日なり」と伸びきった戦線の補給の困難さを嘆いている。彼は衣川に駐屯地・前線基地ともいうべき営(たむろ)を3箇所も置いた事は戦略上重要拠点だったのが分かる。然し彼は江刺巣伏の戦いで阿弖流為よって大敗北を喫し歴史上に敗軍の将としてその名を残した。戦死25名 重傷245名 北上川での溺死が1036名と言う大損害を受けたのです。この様な硝煙立ち込める時代に優雅な衣川の名前を付けたのは都人か地元の蝦夷なのだろうか。続日本記年(789年)に記載されていると言う事は相当古くからの名称であり都人・官人が足を踏み入れる前からであろう。と言う事は荒ぶる陸奥の蛮族が日常的に使用していた事になり蝦夷の奥ゆかしさの証左ではいか。似た様な話がある。前9年役 厨川柵で安部氏は遂に滅んだが捕虜となり都送られたのが貞任の弟安部宗任である。其の時大宮人が宗任に一輪の梅の花見せ「この花 何て言うか知ってるか?」と冷やかした。宗任は微笑みながら「我が国の 梅の花とは 見たれども 大宮人は 何と言うらん」と返したのでその教養に驚き赤面した と言う話だ。誠に衣川の主に相応しい返答だった。この様に衣川は小粒なれど蝦夷の教養と奥ゆかしさの象徴であり北上川以上に陸奥を代表する川なのです。(平成16年9月23日)(参考 平泉町史 平泉町 水沢・江刺・胆沢の歴史 西行 岩波新書 衣川観光物産協会提供資料) 

             

背景の山が金色堂・中尊寺のある関山 衣川
衣川と束稲山 東北本線の先で北上川と合流 衣川古戦場である