蝦夷の英雄阿弖流為が河内国杜山にて斬首されたのが802年 前9年役が起きたのが1051年 英雄を失った蝦夷の国は凡そ250年にわたり歴史的事件は無かったのだろうか?その間の戦闘の記述は秋田城を襲った元慶の乱(878年) 天慶の乱(939年)の他余り目にしないのである。そして次に歴史に残る蝦夷の英雄が出てくるのが奥6郡(胆沢 江刺 和賀 稗貫 斯波 岩手)を支配した安部氏である。衣の里はその奥6郡の南部の胆沢の南端に位置し衣川北岸の里である。衣の里こそ蝦夷最後の英雄安部一族本貫の地なのです。 安部氏が衣の里に移り住んだのは928年(延長6年)頃だと言う。衣川初代忠頼 2代目忠良 3代目頼良 4代目貞任が悲劇の滅亡(1065年 康平5年)にいたるまで凡そ135年間衣の里こそ安部氏の里だったのです。そして次に来る平泉文化を生み出すための生みの苦しみの里でもあったのです。今この里は平泉を日の当たる表とすれば衣川を挟んでその北にあり影のような存在として人影も少なく静かな田園風景の里である。平泉の遺跡は地上に出ていて多くの観光客を惹きつけるが、衣の里は総て地下に眠っていてそれを尋ねる人は少ない。平泉文化の立役者清衡もこの衣の里で育ったのである。彼は藤原経清頼良(後に頼時)の娘(有加一乃末陪・ユカイチノマエ ・結有)との間に生まれ、後に親の敵ともいう言うべき清原武貞を異父として十数年の忍従の人生を過したのである。蛇足ではあるけれど歴史を動かした女性は数いれども清衡の母(結有・ゆう)と義経の母(常盤御前)ほど歴史の重大性の割りに知名度がないのは淋しい。前9年の役(1062年終了)と平治の乱(1159年)で共に敗れた夫の一族は妻子
共々打ち首の時代に敵の女房・側室となって子を生かし平泉文化と鎌倉幕府成立の一因を担ったのには女の強さと母の凄さを見るのである。「二夫にまみえず」と貞節を装い死を選ぶ女性が歴史を創るとは限らないようだ。その上その義経もここ安部氏の末裔の地 衣の里で生涯を終えるのも何か因縁めいているのです。安部氏・奥州藤原氏そして義経と言い衣の里はなぜか滅びの里なのです。最後に衣の里をして衣の里ならしめる史跡はあの有名な一首坂の掛相である。源・清原連合軍により小松柵・石坂柵を破られ遂に衣河関が落ち衣の里が戦場と化した。遂に苦し紛れに金ヶ崎町鳥海柵へ落ちのびる貞任 それを追う八幡太郎義家は一首坂で彼に追いつきそして呼び止めた。振り向いた貞任に向かい「衣の館はほころびにけり」と下の句を詠むと間髪をいれず貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返したのである。この蛮族蝦夷の意外性に感じ入った義家は構えていた弓矢をはずし無言で彼を逃したと言うエピソードの里なのです。由緒ある清和天皇の末裔源氏の棟梁は陸奥蛮族の首領の教養の深さには相当感銘したらしい。この武士の情けは実は1057年黄海の戦いで貞任によって頼義・義家軍が壊滅させられたにもかかわらず二人を見逃してくれたお礼とも取れなくも無いのです。勝負は時の運でる。この二人の歴史的スターこそ衣の里のスターなのです。衣の里ほど魅力的な村はないでしょう。(平成16年9月22日)(参考 水沢・江刺・胆沢の歴史 みちのく歌枕「ころもかわ」「衣の関「衣の里」 衣川観光物産協会提供 西磐井郡郷土史 竃シ著出版) 
 衣(川)の里 其の2

みちのくの名将 安倍一族鎮魂碑