清少納言は枕草子52段「関は」の項に「相坂の関 須磨の関 鈴鹿の関 くきたの関 白河の関 衣の関 たヾこへの関 はヾかりの関と、たとしへなく覚ゆれ。・・・」と載せていて都でも抜群の関心があったようだ。同じ衣でも万葉集に「春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほしたる 天の香久山」と言う持統天皇(645年-702年)のお歌があります。誠に長閑 穏やか 平和そのものの奈良の都に衣の響きはさらに柔らかな雰囲気を醸し出している。所がこの身近な衣の単語が陸奥に来ると更にそこに哀調の響きが加わるのを感じるのは私だけだろうか? 勿論「関」と言う厳しい緊張感のある語彙がそうさせるさせるのだろうが、何と言っても道の奥の蝦夷の心臓部にある関であり蝦夷終焉の関のせいだろう。でもこの関の場所も 名称も中々紛らわしくてはっきりしないのです。「衣の関 衣川関 衣河関 衣川柵」等である。先ず衣の関であるが色々読み聞きしてみると少なくとも4箇所に擬定され時代と道路により移動したらしいのです。一つは奥大道沿い義経の高館小丘と関山月見坂入り口の狭間にあったと言う説である。曽良の名勝備忘録には「衣関 高舘ノ後、切通シのヤウナル有り。是也。南部街道也」とあり、又奥の細道で芭蕉は「泰衡等が旧跡は、衣の関を隔て、南部口をさし固め、夷をふせぐとみえたり」とも記している。二つ目は中尊寺そのものが衣の関だったと言うのである。初めて知ったのだが古い奥大道は現4号国道沿いではなく高舘の下から関山月見坂を登り中尊寺前 金色堂の脇を通り北の衣川に抜けていたと言う。中尊寺の住所が「西磐井郡平泉町字衣関202」でありさもありなんとも思われる。清衡が関山に関路奥大道を開き前9年・後3年の役で亡くなった多くの霊を弔うため中尊寺を建立しここから北は青森外の浜 南は福島白河の関まで一町毎に黄金の卒塔婆を立てたのです。今でも一丁仏の名でその名残をとどめている所があるが其の真ん中に衣の関があったと言う。3っつ目はその関山を下りた北側の麓 衣川との狭い所に衣の関はあったと言うのである。しかし今はこの道は残年ながら無くなっていて直接はいけないし行ってもそこにはそれらしきものは見当たらない。わずかに数個の石碑があるだけだが、然しその衣川の川向に古道奥大道の関道の標柱が立っていて確かに往古の名残を留めている。ここから金色堂 中尊寺への北側の登り口に当たり衣川村の史跡パンフにも載っている。この3っつはいずれも関山を挟んで奥大道上の真ん中と南と北の入口りにあるが4っつめは隣町 胆沢郡前沢町鵜の木と言うところに白鳥の柵がある。 北上川が大きくカーブを描く所にあるがこの当りの字名が「衣関」と言い「きぬどめ」と何とも雅な名称なのです。真実の正体を明かさぬところが又関の魅力なのです。次に衣河の関であるがこれこそ安部氏そのもの悲劇の関であり史実にもはっきり記されているのです。陸奥話記に「一丸泥を以って衣河関を封ずれば、誰か敢えて破る者あらんや。遂に道を閉ざして通ぜず」とあり、さらに「衣河関、件の関はもとより隘路険阻、こう函の固めにすぐ。一人嶮を拒めば萬夫も進むあたあわず。いよいよ樹を斬り蹊を塞ぎ、岸を崩し路を断つ。しかのみならず霖雨晴るることなし。河水洪漲し溢る」とあり衣川村月山の麓衣川を挟み泉が城の反対側の険しい地形のところにある難攻不落の関だった事が分かる。今でさえ厳しい地形の真上を東北自動車道が通っていて今昔ともに難渋の要所なのである。如何でしょか。衣川を挟み南側にある衣の関と北側にある衣河関 衣川は柔和な名前とは裏腹に古来軍事上の重要な地点だったのである(平成16年9月20日)(平泉町史平泉町 岩手県の地名平凡社 新編日本古典文学全集41陸奥話記小学館)
陸奥話記 弥く樹を斬り渓を塞ぎ岸を崩して路を断つ 加うるに霖雨の晴るること無く河水の洪溢するを以てす 然れども三人の押領使之を攻む 武貞は関の道を攻め頼貞は上津衣川の道を攻め武則は関の下道を攻む 未の時から戌の時に迄まで攻撃するの間官軍の死する者9人疵を被る者は八十余人なり 武則馬より下りて岸辺を廻り見て兵士久清を召し命じて曰く『両岸に曲木有りて枝条河面を覆へり 汝は軽捷にして飛超を好くすれば彼の岸に伝い渡り密かに賊営に入りて方にその塁を焼け 賊其の営に火の起こるを身ば合軍驚き走らん 吾必ず関を破らん』・・・密かに藤原業近の柵に到り俄に火を放って焼く 貞任等業近の柵の焼亡するを見て大いに驚き遁げ奔る 遂に関を拒がず鳥海の柵を保たんとす(陸奥話記 小学館) 衣河関はこうして破られたのです
衣河関祉 陸奥話記にあるような極めて険阻な地形です この西は葭ヶ沢で北側は登板不能な絶壁が延々と続き東は衣川の本流でここから下流は徒渉不能となり『件の関は素より隘路にして険阻なり こう函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進む能わず』と陸奥話記にある
右上下 衣川の象徴 衣河関であるが今は何もない  あるのは由来書と標柱だけである 衣関は対蝦夷対策として衣川の南岸に朝廷側の関として 衣河関は安部氏による対中央政府対策としてその北側に設けられたものだった
 
 衣(河)関 其の2