野田の玉川     夕されば 汐風こして 陸奥の 野田の玉川 千鳥鳴くなり          新古今和歌集 能因

               陸奥の 野田の玉川 見渡せば しほ風こして 氷る月影      続新古今和歌集 順徳天皇
  野田の玉川 直ぐ下が河口玉川漁港である 
 
国道45号線を玉川橋手前を右に折れ北リアス鉄道をくぐり玉川漁港にある 少し分かりにくい 能因法師を尊敬する西行は彼の歌枕の地を辿り全国を歩き回ったと言う 殊に陸奥には2度足を運んでる 能因は988年生れで歌学書「能因歌枕」を著し歌枕を体系ずけた人物であるがそれを慕ってきた西行がここにしばし庵を結んだというのだが果たして誰が何時ごろ何を根拠にしたのだろうか



西行屋敷跡の碑
野田の玉川伊能忠敬が測量日記に「玉川は六玉川の一也」と記している。日本六玉川(むたまがわ)とは(1)滋賀県草津市野路の玉川 (2)宮城県塩竈市・多賀城市野田の玉川(3)東京都調布市調布(てづくり)の玉川 (4)京都府綴喜郡井手町井手の玉川 (5)大阪府高槻市三島の玉川 (6)和歌山県高野高野の玉川となっていて、岩手県九戸郡の野田の玉川はその中に入っていないのですがその河口には西行屋敷跡の碑があり能因と順徳天皇の歌の碑も立派に建っているのです。。ここ野田村は九戸郡だが南隣の普代村から宮城県堺の気仙郡堺まで明治4年(1872)の廃藩置県で岩手県閉伊郡に、明治11年(1878)には東・西・南・北・中の5閉伊郡となり後には下・上の2閉伊郡となったのです。その閉伊郡は三陸海岸の3分の2と北上山脈の半分を占め岩手県の凡そ3分1位の広大なエリアを占めていたのです。この蝦夷的閉伊の名こそ蝦夷とともに古い地名なのです。閉は閉・幣・弊・閇等とも記されアイヌ語のペ(水)・辺・端・稗などが語源らしい。続日本紀の霊亀元年 (715年) の記事に「陸奥の蝦夷第三等邑良志別宇蘇弥奈ら言うさく『親族死亡し、子孫数人となり常に狄徒に抄略せられんこと恐れんかな。請らくは香河村に郡家を造り建て編戸の民となり永く安堵を保たんことを』と。又蝦夷須賀君古痲比留ら言さく、『先祖以来昆布を貢献す。常にこの地に採り年次闕かず。今国府の郭下、相去ること道遠く往還旬を累ねてはなはだ辛苦多し。請うらくは、今国府の郭下、相去ること道遠く、往還旬を累ねて、甚だ辛苦多し。請うらくは、閇村に便りに郡家を建てて百姓に同じくしてともに親類を率いて永く貢を闕かざらん事を」と見られる閇村や、日本後紀の弘仁2年 (811年)10月29日 の記事に「陸奥出羽按察使正4位上文屋朝臣綿麿(他4名)に勅して曰『・・・請うらくは、陸奥・出羽の兵合わせて二万六千を発して,爾薩体・幣伊の二村を征せん事を』といへれば数に依りて差発し、早く襲討致せ。・・・」とあり今の久慈・野田を含む北上山中の閉伊の蝦夷が掃討された記録があるのです。そして同じく弘仁2年(811)12月13日には閉村征討の功績により綿麻呂は正四位上から従三位に昇格した記述が日本後記にあるのです。『・・・故従三位大伴宿禰弟麻呂等を遣わして討ち平らげし給き。しかるに余燼なお遣りて、鎮守未だに息まらず。また故人大納言坂上宿禰田村麻呂等を遣わして討ちたいらげしめ給うに、遠く閉伊村を極めて、大方掃いて除きてしかども、山谷に逃げ隠れて、頭を尽くして究め尽くすこと得ずなりにたり。此れに因りて正四位上文屋朝臣綿麻呂等を遣わして・・・』とあり征夷大将軍三人掛りでやっと閉伊の蝦夷を討ち平らげたと言うのです。三代征夷大将軍文屋綿麻呂の蝦夷征伐に於ける駐屯地とも兵站基地の名残とも云わるは糠部坪村(都母)の蝦夷を征伐し七番目の基地(七戸)からUターンして海岸に出て八番目(八戸)の基地を造り更に南下して閉伊に九番目の基地(九戸)を造り北上山中を横断して閉伊の蝦夷を征伐して盛岡志波城に戻ったと言うのである。
九戸は町としては存在しないが岩手県に九戸郡としその名を留めている北上山脈は高冷地・山間地・寒冷地の三拍子揃った辺境の地で尚且つ海岸はリアス式海岸の険しい断崖は蝦夷のホームグランドに最適で、逆に云えば蝦夷にとっては最後まで安住の地であったわけである。確かに盛岡市内から国道455号線に入りご存知龍泉洞のある下閉伊郡岩泉町から県道173号を通り下閉郡田野畑村で国道45号線に出る。しばらくして下閉伊郡普代村を通り安家(あっか)川の橋を越えるとそこが九戸郡野田村となる。この凡そ150kmの山道は古来『塩の道』とも呼ばれ野田産の塩を牛の背に積み三泊四日で北上山脈を越え盛岡・雫石・秋田鹿角方面迄運んだ『野田塩ベコの道』なのです。岩手の民謡南部牛追い唄はこの時の歌なのです。実に山又山であり蝦夷の往時には自然と一体の豊かな狩猟生活が出来たのではないでしょうか。正に秋田の蝦夷の長恩荷が阿倍比羅夫に言った『我々は肉食なので弓矢を携帯しているが決して反抗の為ではない 秋田の神に誓って忠誠を尽くす』といった通り、刀と弓矢こそ狩猟民族にとって生活必需品を実感できるのです。所で閉伊郡は中世には閉伊氏が郡内地頭職として統治していた。特異な事なのですが驚く勿れその始祖はなんと保元の乱父為義と共に崇徳上皇側につき兄義朝に敗れ伊豆大島へ島流しにされた鎮西八郎為朝(頼朝の叔父)の末裔と云うのだ為朝は小さいころからの暴れん坊で父為義に九州へ勘当されたがそこでも自ら鎮西総追捕使と名乗り在地豪族を平らげたという強者である。伊豆大島で生まれた彼の四男為頼嶋冠者)が源頼朝の命により佐々木四郎高綱の養子となり佐々木十郎行光と改めた。頼朝の奥州征伐後建久元年(1190)に下向して閉伊郡の地頭職を給わり田鎖城(宮古市)に居住し地名を名乗り閉伊頼基と称したと言うのです。所謂清和源氏為朝流閉伊氏(家紋は四つ目結)である。そして佐々木高綱も宇多天皇の流れ組む名門である。そんな理由からでしょうか三陸沿岸には佐々木源氏(宇多源氏)の代表家紋「四つ目結紋」が伝播していて佐々木姓も非常に多い事に通じて佐々木源氏閉伊氏の興亡を伝えているのです。又強弓腕の持ち主鎮西八郎為朝は保元の乱に破れ二度と弓が引けぬ様に右腕の筋を切られて伊豆大島に流されたが後に脱出して琉球王になった伝説の持ち主だし、名馬池月に乗った義経家臣佐々木四郎高綱も京都宇治川で摺墨に乗った梶原源太景季との先陣争いは有名である。武蔵に敗れた佐々木小次郎の羽織の家紋も四つ目結だし、奇抜な美意識の持ち主で足利尊氏の盟友バサラ大名佐々木道誉も彼の末裔らしい。道誉も本名は高氏で足利高氏と同名なので本人は道誉を名乗った人物だ。本当に野田の玉川の歌枕の旅は又新歴史発見の旅だったのです。閉伊の古代は面白い
(平成18年10月4日)(参考 岩手県史中世・青森市史資料編・閉伊村のえみし えみし学会・私本太平記 毎日新聞)