西行屋敷跡 九戸郡野田村玉川  文治2年(1186)平安末期の大歌人である西行法師が当時歌枕の地として名高かった「陸奥の野田の玉川」を訪ねたと伝えられています そのことから、西行法師がここ玉川海岸の景色の美しさに魅せられ、しばし草庵を結んだとされる場所ですが伝承の域は出ないでしょう
  西行屋敷跡内  左 能因歌碑  右 順徳天皇歌碑
ー・・・昔西行は万丈の塵世(名利)を退けこの千鳥玉川の水際に庵を結んだ 玉川の浜はこれを継ぐほどのものがない格調の高い絶世の風光の地でその松風の音・浪の響きはたたこの秋を悲しませるー     村の歴史文化手帳 野田村
三閉伊一揆の碑 下閉伊郡田野畑村
 
田野畑村資料館前立ってる人物が嘉永6年一揆の指導者畠山太助 腰掛けてるのが弘化4年一揆の指導者佐々木弥五兵衛 
三閉伊一揆(田野畑村)
とは岩手県沿岸北部の三閉伊地区(野田・宮古・大槌の各通)で弘化4年(1847)・嘉永6年(1853)で発生した百姓一揆である 明治維新のわずか20年前の事件である 南部藩が専売制を強化し臨時に御用金を科したのだ 圧政から逃れるため立ち上がり遂に日本近世史上唯一勝利の証文を勝ち得た一揆で歴史に名を残した 団結と共同と優れた指導者により組織された16000人の行動は仙台藩や幕府までも巻き込みあわや南部藩取潰しかとの駆け引きにより勝利した 
南部藩では2百数十年の間に133回の断トツの一揆がおきている 司馬氏の街道を行く(奥州の道)には『・・・久慈街道と云う沿道に飢餓の口碑が無数にある古街道をゆくにあたって米に執着し稲作を中心に文化意識を作り上げ遂に稲作をめぐって階級身分まで作り上げた日本人のこの不思議さをつい思わざるを得なかった』と書いている 右の墓は田野畑村にある畠山太助の墓 
上 盛岡市本誓寺にある三閉伊一揆指導者畠山 太助の墓
 『衆民のため死ぬるは元より覚悟のことなれば今更命惜しみ申すべきゃ 三閉伊一揆指導者 田野畑村 畠山 太助 ここにねむる』
とある 
拘束された太助は盛岡の河内屋平野権兵衛宅預かりの身となり厳しい取り締まりを受け明治6年5月27日58歳で生涯を終えた 権兵衛は『彼は昔の佐倉宗五郎の様な人だから』と自分の菩提寺本誓寺に埋葬し『子々孫々平野家の墓参りをする者は必ず同じ香花を畠山の墓にも備えよ』と厳命した 息子は父の爪と頭髪を田野畑に持ち帰り畠山家の墓に葬った  佐々木弥五兵衛の墓は時間の関係で尋ねかねたのは残焔でした 切牛(岩泉)にある(参考 三閉伊一揆田野畑史蹟・事跡ガイドブック)
 
    野田の玉川 其の2