閉伊坂峠 下閉伊郡田野畑村にある

 津波記念碑 昭和8年3月3日
野田の玉川
 其の3
 



➡司馬氏は著書の中で日本人は歴史的に米に甘えすぎ農業を中心にした社会と宗教とモラルを形成した 2000年に渡って民族を養ってきた弥生式水田農業の余りの素晴らしさに南部は復讐されたのである そして明治以降工業が起これば工業に殺到して工業に甘えるという国土経営に冷厳な感覚と能力を持たない民族的性格による とある まさにその工業に復讐されているのが福島第一原発事件 もとは同じことの繰り返しであるように思える 福島は復讐されたのである 彼の先見の目は素晴らしい
 

高山 彦九郎の歌碑 朽ちのこる 野田の入り江の 一橋 心細くも 身ぞふりにける 平正村朝臣と彫られてるいるが彦九郎の歌なのだろうか? ゆく人の あらぬ山路に 見るものは 錦にまがふ 紅葉なりけり  高山彦九郎林子平・蒲生君平(がもう・くんぺい)とともに寛政の三奇人といわれています 北海道と四国を除く全国を歩いた思想家で 陸奥大飢饉の描写は生々しい 司馬遼太郎の街道をゆく陸奥のみちの中に『・・・じつは我々が八戸から久慈に向かってるこの久慈街道をこの高山彦九郎が東北旅行をした時彼も歩いたのである 幸い彼の旅日記も残っている・・・・この旅行の時わざわざ南部八戸方面を経たのは先の大飢饉の時南部では人まで喰ったという噂が江戸まで流れてきたからである・・・・「今其人(喰った人)に尋ぬるに馬の味は猪鹿に勝り人の味は馬に勝ると語れり」と云う異常な事柄に対して淡々たる態度で筆を運んでいる 子がその親の屍喰うという場面もあった また山の中や野外に捨てられてい屍を喰う者もあり「煮ても焼いても生にても喰う」と彦九郎は何か動物学者の観察のようである ・・・「ある里にては餓死せる家に至り屍を我に賜え わが母餓死の後に返すべし と言いて乞い求めつる事有りしとぞ」とこれ以上紹介するに忍びない』と書いている➡