衣河古戦場跡 
真ん中を東西に衣川が流れ左側に4号国道 右側に東北本線 右端に北上川が流れている 衣川は往時はもう少し手前の高舘の麓を流れて北上川に注いでいた 高舘と衣川の間で弁慶を始め義経の忠臣達が華々しく散っていった それがここです
義経・静御前 吉野山の別れの歌
吉野山で別れの際に鏡を形見にもらった靜は
見るとても 嬉しくもなし 増鏡  恋しき人の 影を留めねば
と詠んで後世の人の涙を誘うのです そして義経も
急げども 行きもやられず 草枕  靜に馴れし こころ慣に
と後ろ髪の引かれる思いを詠んでいる

伝義経夫妻の墓
「義経を大将にして頼朝と戦え」との秀衡の遺言にもかかわらず泰衡は度々の頼朝の脅しに屈し義経を急襲した 文治5年(1189)4月30日義経31歳 妻22歳 女子4歳共々自害した 泰衡は義経にくみした自分の弟忠衡 頼衡をも殺害した 伝義経夫妻の墓は元千呪印手院境内の平泉金鶏山の麓にあったが300m南東のここに移された
   源 義経衣川古戦場跡の碑    武蔵坊弁慶・源義経辞世の歌
六道の 道の巷に 待てよ君 
   おくれ先たつ ならひありとも   
弁慶
後の世も 又後の世も めぐり合え 
    染む紫の 雲の上まで       
義経
  口語版義経記 平凡社には下記の文言があた
さまよいながら吉野山の御嶽(金峰山)蔵王権現に辿り着いた静は神の前で舞い・・・・節回し歌詞の続け方謡い方は形容する言葉もない程素晴らしいものであったので聞く人は流す涙で衣の袖を濡らさぬ人はなかった そして終わりにこう歌いおさめて
ありのすさみの 憎きだに  ありきのあとは 恋しきに
あかで離れて 面影を    いつの世にかは 忘るべき
親の別れ 子の別れ     すぐれてげに 悲しきは
夫妻のわかれなりけり

静も又涙も止めどもなく流れでてくるのを衣を引き被るとうつ伏してしまった 人はそれを聞いて「声と云い歌詞と云い何と美しいことか まったくただ人ではあるまい 特に夫を恋い慕う人と思へる いったいどんな男がこの女の夫となってこれほどまでに焦がれさせるのだろう」と云いあった・・・

  義経を慕う有名な静御前の歌碑
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入にし人の 跡ぞ恋しき
しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな

   束稲山 其の3