左 救現堂 右 北関東の聖人田中正造翁の終焉の地の碑 館林市
地図を見ると館林市が渡良瀬川を越えて栃木県佐野市から雲龍寺だけをを手に入れるために市に取り込んだように見える ここ雲龍寺には北関東の聖人田中正造翁の終焉の地の碑と墓碑・救現堂があるからです   この墓は足尾鉱毒問題にその生涯を捧げた田中正造の墓です 足尾鉱毒事件は明治政府の富国強兵政策の中で足尾銅山から廃棄された鉱毒が渡良瀬川に流出し下流の耕地を荒廃させたため農民らが損害賠償と銅山の営業停止を要求する日本初の大衆公害運動起こした事件である 彼はこの鉱毒事件問題に取り組んだ中心的存在で被害民の救済にその一生捧げました 大正2年(1913)73歳で没した彼は仮葬儀はここ雲龍寺で本葬儀は佐野市惣宗寺で取り行なわれ遺骨は被害民によって5か所の縁の地に分骨埋葬された 墓碑の右手に建つ救現堂には正造が祀られているが救現とは正造が死の13日前に述べた「現在を救給え」の祈りの言葉に由来する 日本近代史の一端と低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡である(館林教育委員会説明板)  渡良瀬川公害闘争の拠点でありこの寺で死亡した                             
        
可保夜が沼 U