左 阿曽岡(安蘇)の万葉歌碑
(富岡市)
真桑島門 U




下右 雄川堰
甘楽町小幡地区を南北に流れる生活用水雄川堰は 疎水百選=農水大臣 土木学会推奨土木遺産=社法土木学会 名水百選=環境庁 水の郷百選=国土庁 歴史的風致維持向上計画認定=文科・農水・国交各省 と多くの歴史的価値の認定を受けている 桜の時期が最高でしょう

 

織田七代の墓碑 甘楽郡甘楽町木幡  多胡から安蘇への途中の甘楽町信長の二男織田信雄(のぶかつ)7代の城下町小幡藩2万石の町がありました 父信長の死後最後に笑ったのは才能・器量のない暗愚信雄でしょうか  戦国の乱世の織田・豊臣・徳川の世に秋田・群馬の地で長生きしたのです  その結果ここには織田七代152年に渡る(信雄・信良・信昌・信就・信右・信富・信邦)の墓碑崇徳寺にある その結果この町は雄川堰を中心にこじんまりと落ち着いた城下町を形成している 信長以降の織田家を語る重要な町である

阿曽岡からみた安蘇の地 麻が沢山採れたのでしょうか  歌碑の意味は 
安蘇の麻の束を貴女を抱くように抱いて寝ても満足できない自分はどうしたらいいのか(訳万葉集全歌講義 笠間書院) とある
麻は4か月で3〜4mにも伸びるので麻を刈る時はどうしても束を抱く格好になる事から寝ても覚めても彼は彼女の事しか頭に無かったのでしょう
   
右 国指定史跡世界遺産登録
  富岡製糸場
お馴染みの建物正面建物の長さは104.4mもあり一見鉄骨煉瓦つくりに見えるが木骨煉瓦つくりだったと聞いて新鮮な驚きでした 強制ではないがちょんまげ断髪令が明治4年・廃刀令(帯刀禁止令)が明治9年西南戦争が明治10年にも関わらす明治5年には何と早くもフランスの技術とノウハウでこの近代的国策官営製糸工場を作ってしまったのだ 近代工業はここから始まったのです 明治維新と言い太平洋戦争敗戦時以降の替わりに身の速さこそ日本の特徴だ 片倉工業の売らない 貸さない 壊さない3ない精神がこの建物を残したのです
 
 明治6年には明治天皇皇太后・皇后が行啓 明治26年三井家へ払い下げ 明治35年原合名会社へ譲渡 昭和13年片倉製糸紡績鰍ニ合併 昭和18年片倉工業富岡製紙所と改称 昭和36年片倉工業株富岡工場と改称 昭和62年115年の操業停止 平成17年国指定史跡 平成18年国指定重要文化財 一切を富岡市に寄贈・売買契約締結 平成25年世界遺産決定(富岡製糸場パンフレット) フランス人ブリュナの館は女工の読み書き・和裁等の夜学校として企業内教育・診療所も併設されていて福利厚生も最低限はあったようだ 当時一般的な女工哀史的悲惨さは今は感じられなかった