上 山名丘陵(佐野山)
現在の山名丘陵が往時佐野山と呼ばれていたという 山名と云えばあの思い出すのがあの応仁の乱山名宗全を思い出すでしょう 山名氏は清和天皇の流れを汲む八幡太郎義家の子義国の子の中で利根川を挟んで栃木県側足利の庄に住んだ源 義康が足利氏の祖となり群馬県側の新田の庄に住んだ源 義重が新田の祖となったのである そして義重の子のうち義範がここ山名の地に住んだので初代山名氏を名乗った 宗全(持豊)はその11代目に当たる 応仁元年(1467)〜文明9年(1477)の応仁の乱8代将軍義政(夫)の義視(義政弟)と日野富子(妻)の子義尚の相続対立が細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)に分かれて全国24か国の大名と15万の兵の10年に亘る戦で京の都が灰燼と帰した 最後は意味不明・結果不明の内乱で終わった 戦後と言えば我々は太平洋戦争を意味するが京都の人は今でも応仁の乱を指すという この時期から下剋上の戦国時代に入る事となるのです
下右 山名神社神馬 忠臣楠正成と共に南朝の後醍醐天皇の中心武将であった新田義貞同族足利尊氏の北朝方により花と散ったがこの神馬の像は全国の新田の同族山名氏の末裔が寄進したもので西国を向いている(説明板)
右・上中 山名八幡神宮本殿・幣殿(高崎市指定重要文化財) 山名氏の祖山名義範が文治年間か安元年間に大分宇佐神社の分霊を勧請した武運の神として崇拝した
 
右中  山名神社 神馬
                  佐野山 U
上 たちわりの石 神社前にあるこの石は剣術真庭念流中興の祖樋口定次が天真流村上天流との果し合いの為山名神社に神助を祈願して21日目の満願の日に琵琶の木刀で断ち割ったという  烏川での果し合いでは見事天流を破ったという(説明板) 念流はここ真庭村(現高崎市吉井町馬庭)で樋口家が道場を開いたもので現在も馬庭に道場を開いていて見学も出来る 攻撃より我が身を守る事を主体にするという ウイキペデイアによると日本三大兵法源流の一つだそうだ

右 石碑 凡そ例といふは 
 其の時が例なり 山名宗全 
 
意味は中々難しいいが その時その時の時勢のみが大切なのだ という意味らしい