三条市歴史民族資料館(旧武徳殿) 三条市唯一の国登録有形文化財
 武徳殿とは平安時代に大内裏にあった殿舎で宮中で競馬などを鑑賞する際に用いられた
伊久里の森 V
角兵衛地蔵尊と右の碑はその慰霊碑
 
上中 角兵衛地蔵尊と右の碑はその慰霊碑 角兵衛獅子一党が古くから技芸上達と旅巡業中の安全を祈願した 当時月潟村の人々の中には獅子を不名誉と考えるものが多かった(月潟=角兵衛獅子=人買い)が獅子一行の芸道上達・道中安全としてせめて地蔵祭の日だけは帰郷して日頃修練した芸を披露しようとした渡世者の感情との切ないまでの妥協であった 角兵衛獅子は江戸時代が一番の隆昌した時で時代の寵児であったが明治時代に入ると時代の流れと共に衰退した 幼児・児童の旅稼ぎは文明開化の社会の目からは虐げられた子として見られるようになり義務教制度もこれを許さなかった。
この角兵衛獅子の由来は何時の時代かは不詳であるが言い伝えによると、常陸の国、水戸の住人で角兵衛がある時何者かに殺され、当時殺害者は足の指のない男ということだけしか判らなかった と云うのは、角兵衛が殺されるとき相手の足指をかみ切っていたからである 残された二人の息子角内・角助は大衆の中で逆立ちすることを思いつき「あんよを上にして、あんよの指のないものを気を付けて見れ」と歌い囃して、不倶戴天の敵をたずねて諸国を巡り歩いたと伝えられている(参考 越後月潟 角兵衛獅子の由来 角兵衛保存会パンフレット)
角兵衛獅子は月潟村及び其近邑より出で、諸州郡を巡り初夏に出で暮秋に還る、越後獅子と云ふ。皆農家の少年にて、乞丐の種にはあらず。其舞曲頗る古風なれど、其始源不詳。角兵衛なる者其舞を制し始る故に、かく名づくるか、年12〜13の童子、紙に張抜たる獅子頭を戴き、頂に鶏尾の羽植、身に素襖の無袖様の物を服し、下裳にかりさんの如きを着、胸に太鼓を掛て打囃、「獅子の子が生れ落て頭ふる」と唱歌して舞をなす。近年はじの月潟の伎も大いに変改し軽業の態に化したり、東京には別に常住の角兵衛あり。(大日本地名辞書 北国・東国編(富山房)
右上 角兵衛獅子をデフォルメした像 台座には美空ひばりの越後獅子の唄の歌詞が彫られていてボタンを押すと歌が流れてくる 昭和26年西条八十作詞・万城目正作曲で「私は街の子・父恋し』と昭和20年代のひばりの三部作ともいわれる 又1951年松竹映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」の映画で角兵衛獅子の唄を歌っている 嵐寛十郎と山田五十鈴と共演しているのも懐かしい 5歳年上の姉がよくこの歌を歌っていたので小学1〜2年頃の私もよく覚えていた
右下 旧新潟交通電鉄月潟駅 角兵衛獅子の碑や像は月潟駅のプラットホーム上にある この鉄道は1999年(平成11年)廃線となっていて当時の電車が公園の一部として保存されていた 
    角兵衛獅子の唄 美空ひばり                   越後獅子の唄 美空ひばり       
♪生まれて父の 名も知らず   ♪情けを知らぬ 親方の       ♪笛に浮かれて 逆立ちすれば  ♪今日も今日とて 親方さんに   
 昼寝のひまに 空見れば    恋しい母の 名も知らぬ       山が見えます ふる里の     芸がまずいと 叱られて
 私しゃ旅路の 角兵衛獅子   雁も親子で 帰るのに        私しゃ孤児 街道暮らし     撥でぶたれて 空見上げれば
 笛や太鼓の ひと踊り♪
    私しゃ越後に いつ帰る♪
       流れ流れの 越後獅子♪    泣いているよな 昼の月♪