良寛生誕の地 橘屋跡地 新潟県指定史跡
佐渡島を背景に海上に浮かぶ浮見堂に見立ててある
日野資朝の歌は 佐渡へ流される時出雲崎に風待ちの為に滞在した時詠んだものである 後醍醐天皇と共に朱子学を学び鎌倉幕府の倒幕計画の中枢にいた人物 然し六波羅探題(鎌倉の朝廷への監視機関)に計画を察知され佐渡へ流罪された(正中の変 1324年) その後天皇老臣吉田定房の密告により再度倒幕計画が発覚して佐渡にて処刑された(元弘の乱 1331年) 其の時の宿がここ橘屋なのである
  良寛堂の背後には母の生誕の地である日本海の佐渡島を見ている良寛の後姿 正面には遥かに佐渡島が見えるのだが少し霞んでいて見えにくかった
たらちねの 母が形見と 朝夕に 
          佐渡の島べを うち見つるかも

古に 変わらぬものは 荒磯海
          向かひに見ゆる 佐渡の島なり
 
芭蕉園にある句碑と芭蕉像 
元禄2年(1689)奥の細道の北陸路の行脚の芭蕉と曾良はここ出雲崎で「旅人宿大崎屋に一泊した 曾良旅日記の7月四日の記述の中に「四日快晴 弥彦を立 ・・略・・寺泊ノ方ヨリハワタベト云所ニ出キ行也 寺泊ノ後也 壱リ有 同晩申ノ上刻出雲崎ニ着 宿ス 夜中雨強降」とある  その大崎屋はこの芭蕉園の向かいにあったが今は普通の民家で碑も標柱もない 説明板にはこの夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた芭蕉は霊感を得て吟じたとあるがものの本によると到着後10日までは雨が降り続いたともある
 ゑちご驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや 谷嶺のけんそくまなく東西三十余里よこおれふしてまた初秋の薄霧立もあへす波の音さすかにたかゝらず たゞ手のとゝく計になむ見わたさるけにや 此のしまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るを むかし今に至りて大罪朝敵の人々を遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷しき心地せらるるに宵の月入かかる 此うみのおもてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとゝかなしく聞こえて侍るに・・・(奥の細道説明板)
                荒海や 佐渡によこたふ 天河   芭蕉