左上下
良寛の里和島の南東に長岡市与板町がある

左上 直江山城守兼続与板城本丸跡


出雲崎 Ⅴ

       

左から➡大手門としては余りにも貧弱すぎますねこれも兼続の性格か?晩年兼続はその働きぶりから景勝より6万石を与えられたが5万石を家臣に・5千石を小身に与え自分は残りで生活した と云うからさもありなんでしょう
上良寛禅師遷化の地碑 木村家住宅 長岡市和島木村家の屋号は近世初頭菩提寺の隆泉寺と共に能登の国から移ってきたことに由来する 良寛は木村家11代の能登屋元右衛門の招きに応じて老いの身を養う事とした
右 良寛禅師終焉の地標柱(左)と良寛禅師庵室跡の碑 文政9年良寛は69歳の国上山中の乙子神社の草庵からここ能登屋(現木村家住宅内)邸の草庵に身を寄せ足かけ6年の歳月を過ごした
左上下 良寛像と良寛禅師墓 隆泉寺 長岡市和島 天保2年(1831)正月6日74歳で木村家にて入滅 弟由之や 偏重・貞心尼と木村家の人々に見守られながら入滅した 天保4年3月木村家墓地に墓碑建立 左側には弟由之・右側には木村家代々の墓がある 墓碑の右には良寛の詩「僧伽」 左側には旋頭歌「やまたづの」が刻まれている 新潟県指定史跡  やまたづの
やまたづの 向の岡に 小牡鹿立てり
 神無月 時雨の雨に 濡れつつ立てり

上中右 良寛禅師庵室の碑
 
上右端 直江山城守兼続公像
越後統一の立役者の直江兼続が与板城主になったのは上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝の執政として活躍した天正9年(1581)である 内には上杉景虎との相続争い 外には織田信長・徳川家康・北条氏直等の軍隊との戦や出羽・荘内平定の交戦が続いたが総て侵略戦争ではなく越後のみの安泰の為であったという(説明板) 有名な兜の前立ての愛の文字はその証でしょう 本丸は標高104mである 一説によると景勝は無口で冷淡で一生の内に唯の一度しか笑わなかったにも拘らず秀吉の五大老として徳川家康にも睨みをきかしていた事を考えると兼続の果たした役割は大変なものだったに違いない
右 与板城大手門
与板城は慶應4年(1868)の戊辰戦争で焼失したが大手門と切手門は戦火を免れ明治4年(1871)廃藩置県の年にここ浄土真宗本願寺派与板別院に移築されたものである(説明板) ➡右へ