『今菅原村と云ふ 高田の東南三里 式内社菅原神社有 (或いは万葉集の歌名所越の菅原をコシの菅原と読み此れに引きあつれど採り難し 彼章はヲチの菅原と読むべく和州の事のみ)』(大日本地名辞書 富山房東国北陸編)とある 確かに万葉集巻7-1341には
       真玉つく 越智の菅原 我れ刈らず 人の刈らまく 惜しき菅原
と詠まれてる 同上方編には『今越智岡新沢は古の越智なり 越智岡稜は皇極天皇を葬り越智野は万葉集に詠ぜらる 越野は越智野なり 歌枕にコス野と詠むは誤れり
       しきたへの 袖易へし君 玉だれの 越野に過ぎぬ 亦も逢はめやも      194.195 柿本人麻呂
此の反歌は裏書に『或本云 葬河島皇子越智野時』とあり 因りて越野は乎知野とよむべし 高市郡の地なり 万葉集に又越の菅原あり 之を高志国と為すも非なり』とある 大和の国奈良県に分がありそうだが野暮は云わずに載せました
 延喜式内社頸城郡13座の一つ菅原神社  
                                       
 
 菅原古墳 菅原神社の境内である岡嶺丘陵の東側面に南北約1.5kmにわたり古くから150基程の大小古墳が群集していた  説明板の後ろに見えるのが古墳だが其の菅原古墳の最南端の丘上に唯一基だけ残されている前方後円墳が神社の隣にある 全長30m・高さ1.5m・後円部直径18mと小柄ながら6世紀前後に造られたものである 6世紀ごろ大和地方の中央からこの地方を開発し新しい文化を普及するためにやってきた豪族の首長かこれに匹敵する地方の豪族の首長のものと有力視されている(説明板) 確かに説明板がなければ大型の前方後円墳に見なれてきた私には気が付かないほどの古墳だし平凡な田園風景の中の神社なので歌名所としての歌枕の地には見えない