左 鏡井戸 今から一千年の昔砂子塚村(現分水町)の館主否瀬某に外道丸と云う世にも稀な美男の子がいた  始め和納村の寺に預けられたが乱暴が激しくここ国上寺に稚児として預けられた 彼は熱しに仏道修行に励んだが余りの美男に遠近の女性から手紙で葛篭が一杯なった ある日一人の女性が彼に焦がれ焦がれてついに死んでしまった 驚いた外道丸は手紙を見ようと葛篭を開けると恋文が真っ白な煙となって立ち上り彼は気絶してしまった しばらくして起き上がり井戸を覗くとそこには鬼面の姿が映っていた 狂乱した外道丸は寺を抜け出し山中の断崖穴に籠り自ら酒呑童子と名乗り数々の悪行を重ねた後京都丹波の大江山に住みついたという その後酒呑童子は大江山で摂津源氏源満仲の長子源頼光と数人の家臣(渡辺綱 坂田金時等)によって退治されたされた事は皆さんご存知のとおりである(説明板) 然し酒呑童子の生誕の地の一つがここ新潟県国上山とは知りませんでした
左端上下 越後一ノ宮国上寺と隣が本堂
良寛ゆかりの国上山は山の名はくがみさんと呼び寺の名を呼ぶときはこくじょうじ と云うのだそうだ 真言宗豊山派雲高山国上寺は和銅2年(709)弥彦大明神(天香山命)の御託宣により泰山澄大徳の開山になる北越鎮護・仏法最初の霊地である(説明板)
左上下 良寛像と歌碑
国上寺境内にある像と歌碑
あしひきの 山のたをりの 紅葉はを  
    手折りてぞ来し 雨の晴れ間に
上 六角堂
文治3年(1187)兄頼朝に追われた義経・弁慶以下数人の家臣は奥州平泉秀衡を頼って寺泊を経てここ国上寺を参詣して今後の無事を祈願して大黒天木造を寄進したと伝える 文化13年(1816)当寺に秘蔵された大黒天を招副利益のため六角堂を建立して本尊として安置した(説明板)
 
 弘法大師 五鈷掛の松  弘法大師が中国より帰国の途次三鈷と五鈷を投げられと、三 鈷は高野山の松にかかり五鈷が当山のこの松の枝にかかり真言道場になりました。国上が天台から真言に変わるきっかけを語る逸話である 右の詩碑には  国上の、大殿のまえの、一つ松、上つ枝は照る日をかくし、中つ枝は鳥を住ましめ、しづ枝は甍にかかり、時じくぞ霜は降れとも、時じくぞ、風は吹けれども、千早ふる神のみ代より、ありけら可、やあやしき松ぞ国上の松は と彫られている
        国上山其のU