上 市振のシンボル海道の松 
昔の北陸道はこの海道の松から北に下る西からの旅人は愈々迫り寄せくる波に怯えながら天下の険親不知子不知を越えることになり又西へ上る旅人は10km余りの断崖絶壁の難所の波間を命がけでかいくぐり海道の松に辿りついてようやくほっとして市振の宿に入ったのである(説明板)  街道の松を右に折れると市振の海岸である
右 市振宿芭蕉宿泊の宿桔梗屋跡
今日は親しらず・子しらず・犬もどし・駒がへしなど云北国一の難所を越えてつかれ侍れば枕引き寄せ寝たるに一間隔て面の方に若き女の声二人計ときこゆ 年老いたるおのこの声も交りて物語するを聴けば越後の国新潟と云所の遊女也・・・・あした旅立に我々にむかひて『行衛しらぬ旅路のうさあまり覚束なう悲しく侍れば見えがくれにも御跡をしたひ侍ん 衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁させたまえ」と泪を落とす(奥の細道)
左  市振の関所跡
江戸時代初期徳川幕府は重要政策の一環として全国に53の関所をもうけた 市振の関はその内の23関の一つであった 親不知子不知の剣難を後に控え北陸道に於ける越中との国境の要所として寛永年代の初め幕府は高田城主松平光長に命じてここに関所を設けた
 
弘法の井戸
弘法大師が足元の土を杖で三度突っついたら水が湧いてきたという

右下 境川
舟もなく 岩波高き 
 境川 水増さりなば 
人も通はじ 
堀川百首
越後名寄云々 境川近くに玉之木村あり 市振の関也 境川今は舟にて渡せり 昔は徒渡りなりにしや水上は上路の山奥より流出る 渡場より間も無く海に入常さへ流れ速し 出水の時は甚難所也(大日本地名辞書 富山房) この川を越えると越中富山県である 川の右側が富山県 左側が新潟県

左 芭蕉句碑長円寺境内
 一つ家に 
遊女も寝たり 萩と月
芭蕉唯一の艶っぽい句
 
 沼奈川 V