姉歯と言う地域は宮城県北部の金成町南部二迫川・三迫川の合流する地点にある。そこにある松をして姉歯の松と呼ぶのだが尋ねてみれば平凡な松そのものなのだ。然しこの松は宮城県岩沼市の『武隈の松』と山形市の『阿古耶の松』と並び陸奥の三大名松と呼ばれているのです。それが古来陸奥で名にし負う一級の歌枕になったのはどうしてなのか全く歌枕の不思議なところである。この松を此処まで著名な松にしたのはやはり上記の伊勢物語でしょう。作者不明 成立年代不明のこの業平一代記の様なこの物語は凡そ古今和歌集の前後(905年)と言われている。主人公在原業平の生没が825〜880年という事を考えると既に相当古くからこの松は都の人々に知られていたのだろう。800年前後と言えば789年頃紀古佐美がアテルイに北上川巣伏の戦いで大敗を喫し、797年には田村麻呂が征夷大将軍になり、802年にはアテルイが大阪枚方杜山で斬首された頃でもある。陸奥蝦夷の地は38年戦乱の真っ只中であるにもかかわらずである。戦乱の最中に日本人って何と奥ゆかしい民族なんだろうかと今更ながら考えさせられるのである。その伝承はと言うと何と用明天皇(586年〜587年)の御代采女として気仙郡高田(岩手県陸前高田市)の里から朝日姫が都へ登ったが途中この地姉歯で重病となり亡くなってしまった。代わって妹の夕日姫が采女として都への途次この地でその霊を弔う為墓の印に松を植えたのがその始まりと言う。又義経記では「・・・出羽の郡司が娘、小野小町と申者住候ける、玉造のむろの里と申所、又、小町が関寺に候ける時、業平の中将、東へ下り給ひけるに、妹の姉歯がもとへ、文を書きて言伝しに、中将下り給ひて、姉歯を尋へば、空しくなりて、年久しくなりぬ、墓に植たる松をこそ、姉歯の松とは申候へと申ければ、中将、姉歯が墓に行きて、松の下に文を埋めて、詠み給ひける歌、 くり原や あねはの松の 人ならば 都のつとに いざといはましを とよみ給ひける名木を御覧じては・・・・」とあり小野小町の墓の伝説にもななっていて美男美女の業平と小町の仲をこの陸奥に伝えるのも面白い。(参考 宮城県の歴史 平凡社 大日本地名辞書 吉田東伍) |