布に織る 芭蕉の辻ぞ にぎわしき 人の往ききも 経緯にして    

1871年(明治4年)の廃藩置県で仙台藩は仙台県となるわけであったが薩長を中心とした新政府はそれを許さなかった。奥羽越列藩同盟の雄藩である仙台の名を嫌ったのである。そこで古代からある宮城郡と言う由緒ある郡名から宮城県としたのである。畏れ多くも天皇が住まわれる宮城(きゅうじょうの名前の使用許可を宮内省に恐る恐る伺った所『古代以来の由緒ある呼称につきはばかりなし』との内諾を得て県名にしたという。多賀城は『鎮守府・国府・按察使府という三大地方政庁の所在地で遠の朝廷(みかど)』と呼ばれていて宮城に相応しかったのです。この例は九州太宰府との二ヵ所だけである。仙台芭蕉の辻と言う名称から先ず頭に浮かぶのが奥の細道の作者 松尾芭蕉が絡んでいるのではないかと連想するが全く関係がないのです。地元仙台の方にはなじみの辻であるが 県外の我々にとってはその名前から『奥の細道の芭蕉』のイメージになってしまうのは致し方がないでしょう。我々の年代だと辻と言えば『仇討ち荒木又右エ門36人切り 決闘鍵屋の辻』 の方が馴染みがあるのである。それは兎も角この(4つ角)は伊達政宗の都市計画(縄張り・町割り)をしたときの中心点だったのです。陸奥の覇者となった正宗はそれまで居た県北西部の岩出山町からここ仙台の地に移転を願い出て 1600年に築城の認可が下りたのです。早速翌年青葉城(仙台城)の築城を開始したのです。其の時先ず城の大手門から真東に榴岡に向けて東西一直線の道路を作り その次に奥州街道を南北に通しその交差点から仙台の町割りを始めた、云わば100万都市仙台の記念すべき第一歩の地だったのです。以降ここ芭蕉の辻の賑わいは目を見張るものがあり、当時陸奥最大の都市会津を抜く4万以上の人口を擁したという。勿論現在もこの十字路は日本銀行 77銀行 安田生命等の金融機関が陣取り 界隈も大企業の支店ビルが軒を連ねている。この歌が誰によって詠まれたのかは不明ですがその繁栄ぶりをよく表しているとおもわれるのです。この辻は歌枕の地という訳ではありません。所でこの辻の名の由来ですが結局はっきりしないのだそうです。ここに芭蕉が植えてあったためとか、はたまた芭蕉と言う虚無僧が伊達の諜報員(スパイ)として活躍して多大の貢献をしたのでこの四辻を与えられたからとか 四辻の場所が訛って芭蕉になったとか言われるのみである。ただ近くの古くからあるような釣り具屋のご主人に訪ねたら『この辻あたりは伊達家の密使・忍者達の住宅があった所なんだよ』といっていたのが妙に虚無僧説が信憑性を持ってくる。仙台市の見るべき歴史遺産もこの辻を中心に東西南北等距離にあるのも無縁ではないだろう。西に青葉城 亀岡八幡宮、北西に大崎八幡宮、北に青葉神社を含む輪王寺 覚範寺 光明寺群、北東に仙台東照宮、東に榴岡天満宮  国分寺、 南に行けば正宗御廟瑞鳳殿が総て凡そ2km以内にある事もこの辻の性格を物語っている。仙台100万人の求心力だろう。所で金沢市片町交差点にも芭蕉の辻が在ると言うのです。 こちらの辻は奥の細道の芭蕉が泊まった宮竹屋があったので其の名がついた正真正銘の芭蕉の辻であるそうです。機会があれば是非行きたいものです。(平成14年11月15日(参考 宮城県の不思議事典 新人物往来社)
右上 芭蕉の辻の十字路
左右の道が青葉城大手門から仙台駅名掛町への東西の道 上下の道が奥州街道で真っ直ぐ北山丘陵迄の南北の道である この辻の北側は国分町で現在も東北一の歓楽街であるのはご承知のとうりである 更に奥州街道が北山丘陵に突き当たる所には青葉神社を真ん中に輪王寺や北山五山と呼ばれる資福寺・覚範寺・東昌寺・光明寺・満勝寺(北八番町に移転)がある 又この辻から左大手門に向って数百mいくと青葉通りと交わる所に伊達櫓もありビル群の中に伊達藩の名残を留めてる
右下 芭蕉の辻の碑と道標
この道標には
南 江戸日本橋迄 69次93里奥州街道・北 津軽三厩迄 45次107里22丁 奥道中とある
                       芭蕉の辻