わびしさよ
せめて傷心(いたみ)の なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨 ゆく秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し
まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ 忍び泣く
君故に 
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
永(なが)ろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き夢よ 我が恋よ
 太平洋戦争を挟み戦前・戦後を通じて日本人の心情を歌って5千曲もの作詞作曲した古賀メロディの原点がここ宮城蔵王の中腹で伊達藩の湯治場青根温泉の裏山1kmの山中にあったのです。 昭和初期の金融恐慌で大不況の社会不安の最中(さなか)、彼に追い討ちをかけるように失恋の痛手(中島梅子 年上で離婚歴はあるが当時珍しい八頭身美人で芸術的才能豊かな女性とか 古賀が世に出た頃には病死したと言う)を被ったのです 彼は同じ明治大学マンドリンクラブの会計担当で柴田郡村田町出身の大沼幸七氏と「みちのく」の旅に出たのです 松嶋見物をしてここ青根温泉に一泊した時に事件が起きたのです 愛の破局 生活苦 将来への絶望感から蔵王山中を一人さまよい剃刀自殺を図ったのです 然し彼を探し回る友人大沼氏の叫ぶ声にハッと我に返り思い留まったのです 彼はその夜泥酔するまで飲み明かし帰りに見た蔵王の夕日にその時の心象の全て 懊悩の全てを織り込んで作詞作曲し歌いこまれたのが半年後に出来上がった『影を慕いて』 なのです。昭和3年24歳の時に自ら創設した明大マンドリンクラブの定期演奏会になんと当時の既に大スターであったあの佐藤千夜子に依頼して影を慕いて歌ってもらったのです 政雄の熱意で然も無料の出演だったのです これが大好評をはくし後に昭和6年当時東京芸大学生のの藤山一郎がレコ−ディングして不朽の名作となったのです 彼の苦悩から生まれた最高傑作だが当初ビクターかから売り出され時はヒットせず後に日本コロンビアか藤山一郎が歌って大ヒットしたのである その後彼は結婚したが3年後には離婚しその後は一生独身を通すのである。33歳で菅原都々子(月がとっても青いから)を養女にしたがこれも3年後には解消している。考えるに彼は一人の女性の心は掴めなかった男も知れないが一億の国民の魂を掴んだ男なのです。 『酒は泪かため息か 人生の並木路等・・・・』以って銘すべき歌の数々である。この様に神武天皇に敗れた長脛彦・安日彦兄弟から恋に敗れた古賀政雄まで陸奥は常に敗者を受け入れてきた懐の深い国土なのです。(青根洋館資料提供)
碁石 其の3
   古賀政雄はここ宮城蔵王中腹にある青根温泉から約1km登った雑木林で自殺を図ったのです 撮影は6月17日で新緑が清清しいが彼が自殺を図ったのは8月だから緑滴る頃でしょう 国民栄誉賞の出発点はこの雑木林からだったのです 
 戦前戦後を通じて歌謡曲の古典的名曲で彼の作詞作曲第一号の『影を慕いて』はここ柴田郡川崎町青根温泉で明治大学の若き学生の涌き出る心情によって生まれたのです(歌碑入り口) 自殺未遂の場所に歌碑が建っている 前に立つと影を慕いての古賀メロディのギターのイントロが静寂な緑陰に流れて思うようにならない人生の寂しさ・空しさが心に沁みてきます 傷心の身の上の方が独りで来るにはうってつけです