やすらわで 思い立ちにし 東路に ありけるものか 憚りの関        藤原中将実方
     越え行くも 人はとがめず 今は世に その名ばかりぞ 憚りの関        小磯氏女  
憚りの関



 



吉田東伍先生の大日本地名辞書では実方の歌の関名が兄弟(はらから)の関となっている。この関名について地元の郷土資料館の方にお尋ねしたがはっきりした事はわからないとの事。現在宮城県南部柴田郡にあるこの関は国道4号線のバイパスとなってるが大正時代までは確かに交通の難所であったようであるそこは白石川と荒川を挟み南は四保山、北には韮神山が迫り、奥州街道(東山道)はこの白石川と韮神山の迫を通っていたのである。その面影も一部残っている。かって藤原秀衡が建てた関碑があったが明治9年の道路改修で破壊されたという。昭和になり現在の四号国道が白石川の南四保山の麓から槻木に抜ける道となった。地元の古老は今でも北側の奥州街道を旧国道と言っているのには驚いた。そして近年交通渋滞緩和のため再び北側の奥州街道沿いに新たな近代的4車線のバイパスが作られたのである。その時この関の関たらしめ難渋を極めた韮神山の三分の一が削られハイウエーとなってしまったのである。今では逆にその関跡の碑が車を避け韮神山に抱きつく様に立っている。この憚りの関は清少納言の枕草子の『関は』で 『ただごえの関 はばかりの関 たとしへなくこそおぼゆれ』とあり大変古くから都の文化人には知られていたようだ。又後拾遺和歌集 藤原通俊による序では『みずからのつたなき言の葉もたびたびのおおせそむきがたくして、はばかりの関のはばかりながらところどころのせたるところあり』とあってユーモラスな言葉が昔から利用されていたらしい。因みに三省堂の実用新国語辞典によると 『1憚り・・・・はばかること、恐れ慎むこと、遠慮、便所 2憚りさま・・・・助力を感謝する言葉、ご苦労様、嫌味を込めてお気の毒さま 3憚りながら・・・・恐れ多いが、云いにくいが、生意気な言い分だが 4憚る・・・・恐れ慎む、遠慮する、幅をきかす、嫌がる』とある。陸奥の山の中の関に誰がネーミングしたのか知るすべはないが中々粋な方がいたものである。ところでこの憚りの関が柴田町に2ヶ所に比定されていると言うのです。韮神山麓とその東1kmの柴田町船迫にである。尋ね歩いて聞いた酒屋さんの住所がたまたま何と『柴田町大字船迫字関所7−2』だったのです。おばあちゃんは『憚りの関は知らないが関所はあったようだ』というのです。古代 中世には白石川が今の様に直線的でなく山添に蛇行してた事を考えると確か船迫も通行の難所だった様です。所でこの韮崎山と四保山と云っても知名度は無いが四保山にあるのがご存知伊達騒動の原田甲斐・柴田外記(げき)の居城跡船岡城であると言えばご納得がいくかもしれませんね。伊達騒動は加賀騒動・黒田騒動とともに「日本三大お家騒動」と呼ばれるが中々分かりにくい結末で終わるのです。数十年に及ぶこのお家騒動は内容的には3つに分かれるようである。その1が綱宗隠居事件である。三代藩主綱宗はどら息子で遊興放蕩三昧のため叔父の伊達兵部(宗勝)はしばしば彼に諌言したが道楽が止まない。
兵部は困り果て四代将軍家綱の大老酒井忠清に提訴した。それでも綱宗の放蕩は止まないので1660年(万治3年)兵部は幕府に綱宗隠居と嫡男亀千代(伊達綱村)の家督相続を願い出た。幕府は強制的隠居を21歳の綱宗に命じ、4代藩主に2歳の伊達綱村が就任したのです。大叔父伊達兵部が後見人となり家老原田甲斐等と権力の中央集中化を目指したが、一門の自主連合体論を称える伊達安芸(宗重)が伊達式部(宗倫)との所領紛争をきっかけに安芸は幕府に伊達藩内の問題を上訴した。そして1671年(寛文11年)この内紛の裁判を行うため幕府大老酒井忠清邸に関係者等が集められた。先に尋問が終わった甲斐が控え室に戻ると安芸に切りかかり殺害してしまったのです。騒ぎを聞いて駆けつけた安芸派の柴田外記と切り合いになり甲斐も切り殺されるとともに外記もその時の立ち廻りの傷が素で当日死亡すると言う大事件となったのです。だが関係者が皆死亡してしまったため事件は真相は有耶無耶のうちに終了し原田甲斐家はお家断絶、男児4人は切腹・安芸一族の土佐への遠流と引き換えに伊達家62万石は存続となった。この事件の安芸派は伊達安芸(一門・柴田外記(国家老)・片倉小十郎(奉行等で兵部派は伊達兵部(一門後見人)・奥山大学(国家老)・原田甲斐(国家老)等であった。これが騒動の第2幕である。そして最後に綱村隠居事件である。寛文事件が一段落したあと綱村は次第に自身の側近を重職に就け始めたので是に反発した伊達一門と旧臣は1697年幕府に綱村隠居願いを提出しようとしたが伊達家親族の稲葉正直はそれを差し止めた。その後も再三再四幕府に諌言書が提出された。1703年その内紛が五代将軍綱吉の耳に入り仙台藩取り潰しが危惧されるに及び稲葉正直も綱村に隠居を薦めるに至り伊達吉村が5代藩主となり伊達騒動はやっと落ち着くのである。悪役のイメージが強い原田甲斐は当時江戸幕府の大大名の改易や力を削ぐ政策から伊達62万石を守った人物として山本周五郎は原田甲斐の忠臣説を前面に出したのが大河ドラマ「樅ノ木は残った」である。尚歌舞伎「伽羅先代萩」の伽羅は放蕩綱宗が香木伽羅の下駄をはいて吉原高尾太夫へ通いつめた伝説と、仙台は萩が名物である事から伽羅先代萩とした。12代も続く吉原高尾太夫は3代目が「仙台高尾」とも呼ばれ自分と同じ重さの金を詰まれても靡かず情人鳥取藩島田十三郎に操を立て続けたために隅田川の中州で逆さ吊りにされ綱宗に切り殺されたと言うが真偽の程は定かでない。彼女は京都島原の「吉野太夫」・大阪新町の「夕霧太夫」とともに「日本三大太夫」の一人でもある。船岡城は別名四保山城とも呼ばれ1615年から原田甲斐宗資・原田甲斐宗輔親子が、1681年から柴田外記宗意が居城とした仙台藩要害の地であった。憚りの関が置かれた由縁でもあろう。(平成18年9月1日)(参考 宮城県の地名 平凡社 しばたの伝承館 柴田町史 HP伊達騒動)