ひろせ川 渡りの堰の 澪しるし みかさそふらし 五月雨のころ       西行
                                                      
みそぎして 秋の恵みも ひろせ川 幾千世までか すまんとすらん 隆信朝臣集  藤原隆信
                                              
広瀬川 袖つくばかり 浅けれど 我は深めて 思ひそめてき   金塊和歌集 源 実朝
  上 大橋
  
大橋は仙台最古の橋である 17世紀初頭西の仙台城大手門から東の仙台城下町芭蕉の辻を結ぶために掛けられた 背景の丘陵が青葉城址である 現在は昭和13年のものである

左 青葉城址にある伊達政宗騎馬像
  
政宗公の顔の向きは彼の墓所である瑞宝殿の方角を向いている
 ここに載せた歌が歌が陸奥宮城の仙台を流れる広瀬川かどうか浅学非才の悲しさで不明です。奈良県北葛城郡広陵町を流れている広瀬川が歌枕として著名であり恐らくそちらなのかも知れない。心当たりのある方のご一報をお待ちする次第です。とは云うものの陸奥に住むえこひいきから載せて見ました。仙台広瀬川は山形県境の関山峠付近から流れ始め100万都市仙台のど真ん中を流れて太白区長町の郡山付近で名取川に注ぐ流路45kmの一級河川である。水無瀬川(奥州道中絵図)などとも呼ばれた事もあったと言う。又名取川との三角州には多賀城建立前の国府跡とも云われる郡山郡衙遺跡があり古代から重要な河川だったようだ。更に頼朝の奥州征伐では泰衡は名取川・広瀬川に陣をしいたと言うのです。『名取広瀬両河引大縄、柵』 と吾妻鑑の文治5年(1189年)8月7日条にある。南北朝時代にも合戦場となり北畠顕信が一時国府多賀城を奪回した所でもある。 大都市の真ん中を流れる川にもかかわらずその清流は昭和61年日本名水百選に登録されるほどの評判である。然しそれにはその7年も前の昭和53年に仙台を歌って大ヒットしたあの青葉城恋唄にあずかることが大きかったに違いない。
杜の都仙台を代表する代名詞である広瀬川 七夕 青葉城はその涼やかなメロディと詩にピッタリであった。1000年前やんごとなき人妻との叶わぬ恋に陸奥一人旅で見た西行の広瀬川 現代のさとう宗幸があの甘い声で別れた人を偲んで歌った広瀬川 歌の形は違っても感傷の発露は同じである。昔も今も。
(平成15年10月9日)(参考 宮城県の歴史 平凡社)
               広瀬川