不忘山              陸奥の あぶくま川の あなたにぞ 人わすれずの 山はさかしき            古今和歌六帖 
不忘山が人に知られるようになったのは、天武天皇の9年(680年)役行者小角の父願行が吉野の蔵王権現を不忘山頂に勧請して祀ったのが始まりと伝えられています。清少納言の枕草子であの小倉山 三笠山と同列におかれ『・・・おかしけれ』と記載されている。今不忘山は何処?と問はれても答えられる人は少ないかも知れない。歌枕としての蔵王(不忘山)は宮城県側にある。然し元々蔵王山と言うのは無いのだ。地図を見ると北から地蔵岳(1736m)熊野岳(1841m)刈田岳(1758m)杉が峰(1745m)屏風岳(1825m)御前岳(1705m)等の峰峯があり、これらが連峰で蔵王なのだ。白石図書館で頂いた不忘山のコピーをそのまま記載する。『私達は不忘さん と呼ぶがその不忘山は刈田岳を詠む為の歌枕だった。古代の刈田岳は中世の修験道によって蔵王岳と呼びかえられ明治の神仏分離令により再び刈田岳の名が戻って今に到っている。その時宙に浮いたかっこうの不忘山が阿武隈川に最も近い南端の山頂に落ち着いた。追放された蔵王の名は連峰の総称して残った。つまり蔵王連峰は刈田岳 蔵王岳 不忘山と各時代の神道 密教 歌枕の呼名が淘汰される事無く共存していた事になる。では肝心の不忘山の元の名は何だったか? 地図にカッコつきで示された御前岳がそれであろう』と述べている。陸奥を代表する名峰は古代から知識人の噂の山だったらしい。確かに逢隈不忘も遠く都から離れた人々の望郷の思いがひしひし感じられる単語である。又ここには由緒ある延喜式内社として刈田嶺神社蔵王刈田嶺神社と二つある。前者は白鳥大明神とも呼ばれ日本武尊を祭り往古彼が東征の折陣を張った所に建つと言う(県社刈田神社栞)。後者は開山は不明だが神武天皇の2代目緩靖天皇を奉祀の伝説ありと伝え行者による山岳信仰の神社だ(蔵王刈田嶺神社栞)。ともにその古さを競う。不忘山とは切っても切れない刈田岳だがこれより1000mも低いにもかかわらず『大』の字を付された大刈田岳がある。青麻山である(800m)。当初刈田嶺神社がこの山頂にあったからに他ならない似たような名前だが全く無関係であると両宮司さんの談である。この不忘山の麓に城下町白石と言う地味な町がある。特産品『和紙・葛粉・温麺(うーめん)』は白石三白とも呼ばれる。清少納言が文才に行き詰まりストレスが溜った時に陸奥の和紙が送られてくると筆が進んだとか枕草子に書いてるがここ白石の和紙だったらしいのです(枕草子246段・白き紙と新しきたたみ)。この町には重要な二人の人物がいるのです。知名度はないが片倉小十郎景綱世良修三だ。伊達藩南部の押さえ白石と云えば伊達政宗一番の重臣片倉小十郎景綱である。彼は1602年(慶長7年)10月に白石に入部しているが彼の出自は不明なのです。信濃の出で南北朝時代奥州探題大崎氏について奥州に下り天文年間大崎氏を去り出羽伊達家に使えたとか、藤原鎌足の子孫で古くから出羽にいたとかはっきりしない。景綱は1557年(弘治3年)出羽置賜郡長井庄宮村に生まれる。父は米沢八幡宮か高畠阿久津八幡の宮司だったと言う。幼少時代は不遇で異母姉で19歳年上の喜多の手で扶育されたという。小十郎と言う通称は片倉家歴代当主の武勇をあらわす名称と言う。 景綱は伊達輝宗に認められ徒小姓として政宗につけられた。1575年(天正3年)19歳の時で政宗より10歳年上である。それ以来二人の信頼関係は深くなり政宗が疱瘡の為右眼を失明したがその肉が盛り上がり甚だ醜かったので景綱の小刀で切り取ったと言う伝説は有名で二人の間柄を示すエピソードだが真偽の程は不明である。景綱は政宗の下臣としての歴戦武功は檜原攻め・小手森・小浜城合戦・人取橋合戦・二本松粟の須合戦等で遺憾なく発揮された。信夫郡大森城主なり政宗最大の危機である仙北の大崎・出羽の最上・仙道の保科三方面同時作戦転回にも景綱の助言で乗り切り天正17年会津黒川城攻略で影綱は戦国武将としての評価は高まった。秀吉の小田原城攻めも渋る政宗を彼の助言で決断させた。秀吉はその才能に惚れ三春田村領5万石で臣従するよう勧誘したがそれを断り政宗への忠誠を守った。1591年(天正19年)に福島信夫郡大森城から宮城県亘理郡亘理城を賜った。1615年(元和元年)10月14日59歳で死去した。もう一人が世良修三である。1867年(慶応3年)10月徳川慶喜の大政奉還とともに即薩長二藩に倒幕の蜜勅が下された。同12月大政復古の大号令、1868年4月鳥羽伏見の戦いとなり、幕府・逆賊会津討伐の令が仙台藩にも下るのです。奥羽鎮撫総督九条道孝 同副三位沢為量 参謀醍醐少将 下参謀大山格之助(薩摩)・世良修三(長州)が任命され彼等は薩長兵を率いて仙台に入り強く会津出兵を促したが藩論が定まらない。仙台に入った西軍薩長兵は行動・言論が横暴で威圧的・権力をかさに着た言動に藩士・市民は反感を持っていた。特に世良修三は傲慢且つ挑発的以外の何者でもなかった。仙台藩は彼等の矢継ぎ早の出兵督促に渋々会津進撃を開始し白石に本陣を構えたが戦意は甚だ乏しかった。そうこうしていると米沢藩900名が上杉斉憲に率いられて白石城に入った。伊達慶邦と上杉斉憲で善後策を講じ奥州各藩に呼びかけ各藩の代表と相談して会津救済運動起こす事に決定し嘆願書を総督府に提出した。然し認められず逆に会津攻撃の口実を与えてしまった。之には世良修三の意見が強い事を悟った仙台藩士は会津討伐の首謀者は世良修三と判断、彼を倒して時局の転換を図る決断をした。時あたかも仙台藩に世良の密書が手に入った。それは同僚大山格之助に当てた物であった。『奥州皆敵と見て逆撃の大策に致候に付・・・・此の嘆願書通り許され候時は奥羽は1〜2年の内に朝廷の為にならぬよう相成るべく・・・・』とあり世良は会津のみならずあくまで奥羽全域の武力制圧が目的である事が判明『世良斬るべしと』が決まった。 19日夜仙台藩士・福島藩士が福島北町妓楼金沢屋に宿泊していた世良を捕縛し20日市内を流れる須川で斬首した。数日後奥羽25藩が結集し白石同盟なる列藩同盟を結ばれその後越後6藩が加わり奥羽越31藩同盟が成立し白石に奥羽越公議所を設け同盟の大本営となった。白石はこの頃奥羽の中枢として軍事拠点となったのです。不忘山の麓白石は東北の運命を決定付けた地だったのです。(平成18年8月15日)(参考 白石市史 歴史と文学の回廊・東北U 風土社 東北見聞録 八朔社 白石郷土夜話 白石市 史蹟の町 白石市)   不忘山絶景の地点の碑
延宝の冠雪の山が不忘山 白石温麺を食べていたら話好きの御亭主が教えてくれた蔵王連邦の碑 昔はここが白石で不忘岳が一番綺麗に見える所だったそうです この碑の汚れ具合と無骨なコンクリート作りを見れば戦前の眺めのポイントでしょう 今は高台にも建物が出来たのでポイントは沢山あるようだ