風そよぐ 稲葉の渡り 空はれて あふくま川に すめる月影                夫木和歌集 藤原 光俊
                                           

 田沢の磨崖仏(岩地蔵
阿武隈川に突出してる岩塊に磨崖仏群が刻まれている この付近には古墳時代の横穴古墳群がりこの横穴墓の幾つかを利用して磨崖仏が刻まれたらしい 磨崖仏は鎌倉時代から室町時代初期のもと思はれる 四窟からなり四体の地蔵尊と三枚の板碑が刻まれている この場所は古来稲葉の渡しと呼ばれ阿武隈川を渡り多賀城への浜街道の重要な地点だった 磨崖仏はこの渡しの安全を願うという事と関係があるかもしれない(説明板) 

 内堀(?)古墳跡 
渡しの近くにある古墳の碑だが塗料が落ちてよく読めない 今は畑の真ん中で古墳の跡は見えない




       稲葉の渡し

     
 安福麻河伯神社のある小山のすぐ後を流れる阿武隈川稲葉の渡しがある。探しあぐねていたが神社の隣に住む三品祥一氏が事も無げに『裏に古墳時代の摩崖仏と稲葉の渡しがあるよ』と云われた時は驚いた。丸で昨日まで渡しが使われていた様な口振りなのです。車一台がやっと通れる砂利道を20Mも行くと突然阿武隈川が目の前に現れた。この細い砂利道がかの浜街道なのだろうか? 氏の話によると下流の渡しは、渡しまで行くのに砂場が多くぬかるので淵からすぐに舟に乗れる稲葉の渡しが賑わったそうです。確かにこの渡しは岩盤の上にあるので足元は確かだったようだ。そして雨などの増水時の船待ちに彫ったのが摩崖仏なのだと言う。平安時代の渡しと案内杭の古墳時代とでは大分時代違うが之が又楽しいところである。ところでこの渡しの由来書や案内板も何一つ無いのが奥ゆかしいのです。歴史のあるこの狭く細い道に賑わった往時の人々を偲べばまことに感概無量のものがあります。知る人ぞ知る何気ない自然のままの歌枕の風景もいいものである。この渡しの向かいが東山道と浜街道の分岐点玉前(たまさき)の柵(駅)であり笠島 熊野堂 名取橋(栗木橋)を通り多賀城へ通じる最も古い街道が東街道であるらしい。一時期この渡しまでが石城国であり陸奥国との国境という重要な渡しでもあったのでしょう。今でも岩沼側には玉前問屋(とうや)の屋号で明治初期まで阿武隈川舟運の中継を努めた渡邉家が現存しその子孫の方住んでいらっしゃる。古代より近代前期まで歴史とともに歩んだ渡しである(平成14年8月28日)

稲葉の渡し  向側が岩沼市玉前で千貫山が見え史跡船問屋渡辺問屋がある

稲葉の渡しにある石碑だが詠めないので渡しとの関係については不明