実方と恋愛関係にあった彼女はその詞書に ”実方の君の 陸奥に下るに” と述べ
とこもふち 淵も瀬ならぬ 涙川 袖の渡りは あらじとぞ思ふ
新後拾遺和歌集 清少納言
知るらめや 袖の渡りは 時雨して 道の奥まで 深き思ひを
夫木和歌集 寂然
陸奥の 袖の渡りの 涙川 心のうちに 流れてぞ住む
新後拾遺和歌集 相模
涙川 浅き瀬ぞなき 陸奥の 袖の渡りに 淵はあれども
夫木和歌集 藤原行家
『袖の渡り』という言葉を聞くと『あァ 日本人に生まれてよかったなァ』とつくづく思うのです。えもいわれぬ日本的感傷を感ずるのは私だけではないでしょう。淵&瀬 涙川 袖の渡り 時雨 心のうち 深き思ひ 流れてぞ住む等 たかが渡しにこんなにも濡れた真珠の様な言葉を日本人は並べる事が出来るのです。『袖の渡り』と言うこの情緒溢れるフレーズは何時 誰が 何処で 何を根拠にそう詠んだのでしょうか?。石巻の住吉公園内には旧北上川の対岸への渡船場に『袖の渡し』の碑が立っています。大淀三千風の松島眺望集の北上川の所に『袖の渡りの川口』とあり、芭蕉は奥の細道で『袖の渡り 尾ぶちの牧 真野の萱原をよそめに見て』とあり、曾良旅日記では『帰ニ住吉ノ社参詣。袖の渡り、鳥居の前也』とあり 芭蕉の門人 天野桃隣の芭蕉3回忌の供養の陸奥旅行の陸奥鵆で『牧山の道 船渡し 此辺り袖の渡し』とある。一般的には『昔九郎判官義経が奥州平泉へ下向の折 此渡りを渡るに際し無一文のため船賃の代わりに上着の片袖の一部を切って渡したから それ以来里人は袖の渡りと云う』 とあるのだ。義経が奥州には2度来ている。一つはご存知頼朝に追われ安宅関を弁慶等と共に日本海沿岸を逃れた時と 平治の乱(1160年)に父義朝が破れ鞍馬山に預けられていた時、金売り吉次とともに平泉の秀衡のもとに下った時である。実際このルートか否かは別としてここが面白いところなのです。金売吉次が文無しとは思へないのに金の変わりに袖の一部を切りわたすとはとても思えないのだがそんな疑問は野暮というものでしょう。伝承は純粋に信じるのが楽しいのです。明治15年に橋が出来るまで一文渡し(墨廼江)と呼ばれていたのは何か文無しに共通していて面白いのも事実だ。でも清少納言が生まれたのが930年前後と考えると義経にかかわらず相当以前から袖の渡りはその存在があったのが分かるのである。だからこの魅力的地名が同じ宮城県に三っつもあるのです。ここ石巻旧北上川と北上町の追波川(新北上川)と岩沼・亘理に架かる阿武隈川である。ことに追波川の辺りには衣袖山や涙川もあると言う。昔北上町本地と河北町馬鞍との境にに『衣袖の松』という巨木の黒松があり、そこに往時の袖の渡りの船着場があったという。今其の松はないが何とも魅力的ではありませんか。参考文献(石巻地方の史談と遺聞 宝文堂 宮城県の歴史 平凡社)(平成15年9月2日)
|
石巻湾に注ぐ旧北上川河口 北上川の度重なる氾濫のを防ぐため明治44年から昭和9年の23年かけて北上川を登米付近で分流して追波川を利用して新北上川開削して東の追波湾へ流し今までの南に流れていたものは旧北上川呼ばれている 奥の円形の建物は河口の中瀬に建っていて仮面ライダーやサイボーグ009の漫画家石ノ森章太郎萬画館・マンガミュージアムである |