芭蕉は奥の細道で岩出の里について『南部道遥かにみやりて、岩出の里に泊まる。小黒崎・みずの小島を過ぎて、なるごの湯より尿前の関にか々りて、出羽の国に越んとす。・・・』とだけしか述べていないのだ。途中には『昔川・音無の滝』の能因が詠んだ歌枕があるのに・・・何故。平泉では藤原三代栄華の跡に感極まり皆さんもご存知の名句を二句も残した彼が、岩手県一関を出発し出羽境までをたった是の一句だけなのです。
蚤虱 馬の尿する 枕もと
彼は平泉へ来た事で旅の目的の半分が終ったとでも思っていたのかもしれない。有名な鳴子の御湯(みゆ)すらその湯にも入らず横目で見ただけなのです。気持ちは早や出羽尾花沢で待っている旧知の鈴木清風宅で早く楽したかったのではないかと思われる程である。彼はそこで5月17日から5月27日まで10日も滞在しているのを見ても分かる。曾良旅日記では『十四日 天気吉。一ノ関ヲ立。一ノハザマ岩崎栗原郡也 三ノハザマ三リ真坂栗原郡也 此間ニ二ノハザマ有。岩崎ヨリ金成へ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ右ノ方也。四リ半岩手山伊達将監やしきモ町モ平地。上ノ山は正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ 東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右へ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見ノ義也。二リ余遠キ所也故、川ニ添廻テ、及暮岩手山ニ宿ス。・・・』と地名の錯誤はあるが詳しく述べている。ここで伊達将監とあるが岩出山伊達家三代目敏親の事である。そうですここ岩出の里は伊達政宗が宮城県での初の居城の地なのです。正宗は秀吉に対して恭順の姿勢をとりながらも独自の行動を取っていた為、生まれ故郷米沢と福島県の伊達郡と信夫郡そして宮城県の南部を除き、芦名氏から自力で勝ち取った会津を含む福島県の大部分を没収され蒲生氏郷に国替えさせられた。そしてその後この地も蒲生氏に没収され更に北の地岩出山に押し込められたのである。つまり岩出の里は彼が仙台に出るまでの12年間(1591年天正19年〜1603年慶長8年)の居城だった所である事は意外と知られていないのです。伊達政宗と云えば仙台青葉城しか頭に浮かばないがここ岩出山城(古来岩出沢城と呼ばれた)こそ天下盗りの正宗から陸奥奥州の覇者正宗に覚悟した記念すべき里なのだ。古代奥州街道が整備される以前は其の西方を黒川郡吉岡から分岐し加美郡中新田、玉造郡岩出山、栗原郡真坂・岩崎を通り一関に出る街道が主流だったらしい。歴史の道上街道(松山道)と呼ばれている。芭蕉はこの道を一関から岩出山町まで逆に歩いたのである。この上街道とクロスするのが北羽前街道(国道47号)で芭蕉が上街道を岩出の里で右に折れ山形尾花沢に抜けた道である。さらに途中鳴子から羽後街道が分かれ鬼首(おにこうべ)から羽後秋田雄勝町に出る道がある。今でも高速道路を除けば秋田へ抜ける最短道路である。実に岩出の里は古代から交通の要衝であったのだ。今でこそ地味な裏街道だが往時は田村麻呂から頼朝にいたるまで古代多くの征夷大将軍が闊歩した街道ではなかったか。古代郡名である玉造郡の方が岩出山町より今も通りが良いように思うのだが如何なものでしょう。古代陸奥史でも岩出の里玉造の知名度は顕著である。玉造の名は続日本紀728年神亀5年4月11日条に「陸奥請新置白河軍団 又改丹取軍団為玉造軍団 並許之」とあり「白河軍団新設願いと、名取軍団を玉造軍団に改める」と言う文にでている。更に同紀769年神護景雲3年3月31日に 玉造郡人外正7位上吉弥候部念丸 と言う俘囚の官人の名も見える。当時一軍団1000名の駐屯地で769年伊治城が出来るまで対蝦夷の最前線が玉造の柵であったろう。然し其の所在地については学者により定かではないようだ。当時岩出の里を流れる玉造川こそ蝦夷と大和朝廷の国境だったのである。(参考 岩出山町史 岩出山町 奥の細道と文学の旅 里文出版)(平成16年3月27日) |
岩出の里
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