彼は芭蕉の死後1696年(元禄9年)に恩師芭蕉を慕い彼と同じ足跡を辿った人物でその印象を『陸奥千鳥』に残したです。其の中で尿前の関から出羽関屋との間について『・・・尿前より関屋まで12里、山谷剣難の径にて、馬足立たず、人家纔(わずか)にあり、米穀常に不自由、別して飢渇の折節、宿借らず食うべき物なし、二度と通るべき所にあらず、漸く暮に及び、関屋に着く、検断を尋ね、歎きよりて一宿を明かす』とあり、二度と来たくないとその物理的難儀さを記しているのはいかにも実感が出ていて面白いのです。又この北羽前街道について元禄年間の仙台領絵図では『中山宿より新庄領境田へ壱里拾間、同所より関沢境塚まで三拾弐町弐拾八間、鳴子村より境まで難所、十月より三月まで積雪、馬足不叶(ばそくかなわず)』とある。更に同じような事が鬼首の羽後街道について風土記御用書出では『馬足通用罷りならず候』とあり、山形や秋田へは異口同音にその出羽越えの難所振りを記している。このように出羽越えの困難さは歴史的なものである事が分かるのであるが、今や山形へは車でひと越えである。今尿前の関はその国道からはずれ杉木立の中に遊佐家の墓石と共に静かに往時を偲ぶが如き風情は一見に価する。此処を訪れた方は是非『馬足不叶』・『馬足不立』・『二度と通るべき所にあらず』・『馬足通用罷りならず』の地である事を思い出して欲しいものである然し今やそんな痕跡など微塵も感じられずこの関跡のすぐ東隣に羽後街道のバイパスの高架道路が建設中であり隔世の感とは全くこの関の喩えにあるようなものである。
(参考 鳴子町史 鳴子町)(平成16年4月2日) 
岩手の関
 其の2