草陰の 荒ゐの崎の 笠島を 見つつか君が 山路越ゆらん          万葉集12-3192

この歌は防人として旅立った恋人の帰りを待つ女性が詠んだもので恋人を待ち侘びているうちに石となってしまったという伝説の石(美女石)が神奈川県足柄郡湯河原町の子之神社にあるので果して名取の笠島かは疑わしいのでご了承下さい。あの芭蕉が奥の細道で 『笠島は いずこ五月の ぬかる道』 と詠んだ地 愛島笠島(めでじまかさじま)である。奥の細道では『・・・伊達の大木戸 鐙摺 白石の城を過ぎ 笠島の郡に入れば 藤中将実方の塚は、いづくの地ならんと人にとへば、是より遥か右に見ゆる山際の里をみのは 笠しまと云う 道祖神の杜 かたみの薄 今にありと教ふ この頃の五月雨に道いとあしく身つかれ侍ればよそながら眺めやりて過ぐるに・・・・・・』と実方の墓に行けなかった無念さを書いている。芭蕉の陸奥の旅は尊敬する実方 能因 西行の歌枕の地の探訪の旅だったからその墓のある所まで行けなかった。彼は痔病持ちで無理が出来ない上に道に迷ったふしがある。日を改め又出直してくる訳には行かない一生に一度の命がけの陸奥の旅なのでさぞや無念だった事とでしょう。彼が尊敬した実方は美貌と歌才に恵まれたが殿中で藤原行成の冠を叩き落したのです。 あの播州浅野内匠守の刃傷沙汰程ではないがそれを見ていた一条天皇は『歌枕を見てまいれ』と云って草深い陸奥守に転勤を命じた。いわば左遷とも云うべき人事発表である。実方が行成に暴行をくわえた原因が 彼の次の歌である
           桜がり 雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも花の 陰にかくれむ
それが世間で大評判になり実方の風流を褒めたたえていた。所が嫉妬とでも云うか行成は『歌は面白し 実方はをこなり』と云ってしまった。『をこ』とは馬鹿という意味である。実方も育ちが良く貴公子のお坊ちゃんにありがちなプライドがぶち切れ彼の冠を叩き落としたのでしょう。陸奥守に下向して出羽千歳山の歌枕 阿古耶の松を見ての帰り 笠島道祖神
(佐倍乃神社)の前を通るに当たり 『霊験あらたかで賞罰分明なので下馬の上再拝すべし』の忠告に従わず『下品の女神にや 我下馬に及ばず』と通り過ぎたところ忽ち神の怒りに触れ落馬してしまったと云う。 それが原因で998年(長徳4年)11月13日次の無念の一首と 亡骸は千歳山阿古耶の松の元に・・・ との遺言を残し世を去ったといわれるのです。
           陸奥の 阿古耶の松を たずね得て 身は朽ち人に なるぞ悲しき
だから出羽千歳山にはここよりも数段立派なお墓があるのです。陸奥守赴任4年後で間もなく都への栄転も近いころの事である。この短気で直情的だが正直で風流心のある実方に心打たれたのが西行法師である。実方の死後凡そ190年後彼はは陸奥にやってきて霜枯れの薄の傍らに 実方の墓を見て人生に物の哀れを感じ入り次の有名な歌を残すのである。
             朽ちもせず その名ばかりを 留めおきて 枯野の薄 形見にぞ見る
道興准后は回国雑記の中で『けふの路に実方朝臣の墳墓とてしるしの形はべる 雨は降りきぬ と詠じける故事など思ひ出て詠める
             さくら狩 雨のふるほど 思ひ出でて けふしも濡らす 旅衣かな
とある。愛島笠島丘陵の麓にある名取笠島は東山道(東街道)沿いにあり古来多くの武人 文人が通り過ぎた所である。正一位道祖神の前を通る時の人々の神妙さを想像するとユーモラスではある。実方・西行・芭蕉・東街道と笠島は何度尋ねても飽きさせない夢と想像力を与えてくれる地である。(平成14年9月25日)(参考 中将実方の墓 名取市観光協会・宮城県の地名 平凡社・大日本地名辞書 富山房)
                   



名取市内には実方様にあやかった実方まんじゅうがある 光源氏の里なとり と印刷されている
      
                              名取笠島
昔増田駅 今未来へ羽ばたく名取の翼仙台空港の名取駅前通りにある道路標識だ この通りを数キロ行けば愛島笠島で彼の墓に到る 名取は実方終焉の地だ