栗原の 里のひきまゆ ひろひあげて 君が八千代の 衣糸にせん 重之集 源 重
都まで きみを送らん 栗原の 姉歯の松に われならずとも 覚綱集 覚綱
宮城県西北部に古代有名な郡がある。二町(岩出山 鳴子)の玉造郡に対し栗原郡は十町村(築館 一迫 栗駒 金成 志波姫 花山 鴬沢 若柳 瀬峰 高清水)にわたる大郡なのです。古代陸奥において栗原郡ほど血湧き肉踊る地域は珍しいのです。栗原と言えば伊治城でしょう。古代陸奥最大の蝦夷の叛乱(宝亀11年 780年伊治公砦麻呂の乱)のあった地なのです。多賀城設置は蝦夷の地陸奥500kmの足がかりだが栗原の伊治城建設(767年 神護景雲元年)は愈々蝦夷本貫 江刺 胆沢攻略のためその咽喉元に建てた柵城なのだ。イジはコレハル(此治)とも呼ばれ栗原の語源とも言われている。 一迫川・二迫川の間の高台にある城生野一帯にわたる古代柵城で、続日本紀によると神護景雲元年(767)10月15日条に『伊治城作了3旬に未たず完成した』 と言い、更に『陸奥国栗原郡を置く 本是れ伊治城なり』 『勅すらく、陸奥国奏せる所を見るに、即ち伊治城を作り了りたるを知りぬ。始めてより畢るに至るまで、三旬にも満たず。朕甚だ嘉みす。夫れ危に臨み生を忘れて、忠勇は乃見われ、綸を銜み命を遂げて、攻夫れ早く成る。但だ城を築き外を制するのみに非ず。誠に戍を減じ辺を安んずべし。若し褒進せずんば何ぞ後勧めんや。宜しく酬賞を加えて式(もって)匪躬を慰むべし。同11月乙巳条栗原郡建郡』とあり城と栗原郡の建郡が同一なのは 伊治城とは栗原郡の事であり栗原郡とは伊治城と同じ意味なのかも知れない。この城柵は広大だったに違いない。 その築城指揮官は道嶋宿禰三山で陸奥蝦夷最高の出世頭道嶋宿禰嶋足の弟で、外従5位下の彼には『首として斯の謀を建て修成築造せり。今其の功を美める』と述べ従5位上を授けられた。 ここに至り遂に長年の両蝦夷の確執が古代陸奥最大のクーデター砦麻呂の乱となって火を噴いた。伊治公砦麻呂はここ栗原を本貫とする俘囚の長(陸奥国伊治郡大領外従5位下伊治公)である。牡鹿出身の道嶋氏一族の嶋足は中世秀吉にも匹敵する程の出世をした。今太閤角栄か古太閤嶋足かと云われても可笑しくない陸奥蝦夷の流れを汲む。おかげで其の一族である大楯・三山・御楯等も超出世した。道嶋宿禰嶋足は正四位上陸奥国大国造 三山は外従5位上・大掾・鎮軍監・員外介 御楯は陸奥大国造・征夷副将軍・鎮守副将軍である。都の役人陸奥守・按察使紀広純ならいざ知らず同じ俘囚で年下の大楯に 『蝦夷のくせに』 としょっちゅう侮辱されれば砦麻呂ならずとも誰でも含所があるだろう。覚べつ城建設にあたり広純は大楯、砦麻呂を伊治城に呼び寄せた時城内で日頃の侮蔑に耐えかねていた砦麻呂は大楯を殺害、そしてついでに自分達仲間の蝦夷防衛の城造りを画策する按察使広純をも殺害したのだ。そしてその勢いであの多賀城までも襲い灰燼に帰したのだ。 あの有名なアテルイの抵抗の22年も前の蝦夷の尊厳を持った人物の生き様である。陸奥の人々にとり胸のすく思いではなかったろうか。たった是だけでも栗原郡は実にわくわくし、活々と古代が甦り夢を馳せる所なのだ。栗原は四国地方一県に匹敵する大郡なのです。(古代東北の兵乱 吉川弘文館 一迫町史 一迫町)(平成16年3月19日) |
伊治城跡 築館町出土文化財管理センター |