もっと興味深いエピソードがある。皆さんもご承知の方も多いかと思いますが、日本が高度成長の真っ只中の昭和46年にグアム島から横井庄一伍長 同48年には小野田寛雄少尉がルバング島からそれぞれ26年 28年振りに発見されジャングルの一人隠密生活から帰国し人々を驚かせた事である。所がこれと同じような事が既に古代信太郡でもあったのにはさらに驚く。続日本紀慶雲4年(707年)5月26日条にある「信太(志太・信夫)の兵士」の文である。ここ信太郡は栗原郡の南隣にあり宮城県の今の古川市のある中北部であるが、ここの兵士(壬生五百足)が讃岐国錦部刀良 筑後国許勢部形見等と共に663年(天智称制2年)朝鮮百済を救う為、唐・新羅連合軍と白村江の海戦に徴兵された記述である。所が日本軍は大敗を喫し唐軍の捕虜となりながらも40年以上もたってから帰朝したと言うのだ。そしてその勤苦を憐れんで衣一襲及び塩穀を賜う有名な文がある。ただ海戦が663年であり 信太建郡が初見が707年 多賀柵・色麻柵・玉造柵・新田柵737年 伊治城栗原建郡が767年 多賀城780年の時代に大和朝廷の徴兵制が可能か否か議論のある所で、もっと南の陸奥信夫国の書き違い説が有力だが大変興味深い記事である。凡そ1350年も前に陸奥蝦夷が捕虜とは言え40年以上経って陸奥に戻る話は我々にそれ以上の感動を与えてくれる奇蹟的話ではあるが陸奥防人の悲しい哀れな話でもある。
更に此処栗原は古代陸奥終焉の発端となった地なのだ。つまり前九年・後三年の役の火花はここ伊治城の東部城柵となる阿久利川(一迫川)で起きた阿久利川事件がある。この辺り築館・金成・志波姫の境にあるこの川は ”あくと” と珍しい呼び名だが宮城県には大河による低湿地帯が多かったせいか、この他阿久戸 阿久土 悪土 明戸 安久戸 悪地など地名として17箇所もある。陸奥守任期満了真近の源 頼義・義家親子は胆沢城を後にしてこの河畔で夜営していた。そのささやかな事件は其の夜に起きたのだがそれまで恭順にしていた安倍氏悪者説や頼義謀略説など諸説紛々あるが、歴史転換の大きな事件の割にはその原因は他愛ない。蝦夷安倍頼良(後に源頼義と同名なのを気遣い頼時と改める)の息子安倍貞任が頼義の部下藤原説貞の息子光貞 元貞の宿舎を襲撃したと言うのだ。光貞は頼義に言った。『貞任のせいだ! 奴は蝦夷のくせに妹を嫁に欲しがっていたから』と。これで安倍氏攻撃の大義名分を得た と言う仕掛け人頼義陰謀説が強いのが定説だが、それも今となっては想像の域を出ないのである。ただまさかその後12年にわたる陸奥大戦争になるとは誰も想像出来なかっただけだろう。真実は何だったのか好奇心に駆られる所で、このほかにもこの地には実にそうした逸話・史蹟・古跡が多いところなのである。所で「火怨」の著者高橋克彦氏はその中で阿弖流為の父の名をを阿久斗と記している。
(参考 新古代東北史 歴史春秋社 一迫町史 一迫町) |
伊治城跡外郭北辺土塁跡地 |