左上下 前9年の役権守藤原説貞の息子光貞・元貞の幕舎が襲われ人馬が殺傷された事件で安倍貞任に嫌疑がかけられた 堪忍袋の緒が切れた安倍頼時は「人倫の世にあるは皆妻子のためなり貞任愚といえども父子の愛は棄て忘れる事能わず」と宣言して衣川関を閉じて道を断った この地こそ合戦開始の知である 一迫川は昔阿久利(あくと)川と呼ばれていた
下 炭焼藤太夫妻の墓
宮城県北部の金成の3大名物と云えば炭焼藤太伝説・有壁本陣・姉歯の松だろう 藤太伝説は義経記・平治物語・源平盛衰記等で陸奥一の大金持ちで義経と金売吉次は皆さんご存知ですがその父親の炭焼藤太は意外とご存じない 一穫千金 砂金成金の彼は都の高貴な宮家の「於幸弥前」或いは「古耶姫」と結婚して吉次(橘次)・吉内(橘内)・吉六(橘六)を生んだと言う 3兄弟は秀衡に仕え京と平泉を往復する豪商になったという 
 
 
 
 続日本紀に「陸奥国栗原郡を置く 本と是伊治城なり」「勅すらく、陸奥桃生、伊治の2城の営造巳に畢んぬ 厥の土沃壤にしてその毛豊饒なり」「陸奥上治郡の大領外従5位下の伊治公砦麻呂反す 徒衆を率い按擦使参議従四位下紀朝臣広純を伊治城に殺す」「陸奥伊治城と玉造塞は、相去ること35里(23km)、中間に駅を置き、危急に備う」「相模 武蔵 上総 常陸 上野 下野 出羽 越後等の国民9000人を発して陸奥国伊治城に還し置く」と実に生々しく記されているのだ 伊治に城はない 総ての史蹟痕は住宅と田圃の下であるのはな由来書の掲示板のみである 上 前9年の役発祥現場と一迫川  伊治城祉からわすか数百mである

      栗原 其の3