続日本紀に「陸奥国栗原郡を置く 本と是伊治城なり」「勅すらく、陸奥桃生、伊治の2城の営造巳に畢んぬ 厥の土沃壤にしてその毛豊饒なり」「陸奥上治郡の大領外従5位下の伊治公砦麻呂反す 徒衆を率い按擦使参議従四位下紀朝臣広純を伊治城に殺す」「陸奥伊治城と玉造塞は、相去ること35里(23km)、中間に駅を置き、危急に備う」「相模 武蔵 上総 常陸 上野 下野 出羽 越後等の国民9000人を発して陸奥国伊治城に還し置く」と実に生々しく記されているのだ 伊治に城はない 総ての史蹟痕は住宅と田圃の下であるのはな由来書の掲示板のみである |
上 前9年の役発祥現場と一迫川 伊治城祉からわすか数百mである
栗原 其の3 |