左 有壁本陣跡
有壁本陣は昭和46年5月に国指定重要史跡に指定された 江戸の武士社会を今に伝える建造物でその御成門は明治天皇の9年と14年の行幸の出入りの時に開閉されて以来厳重に閉じられたままの開かずの門である 奥州街道の宿駅として1619年(元和5年)に創設され八戸・盛岡・松前・一ノ関藩主の参勤交代の宿泊地だった

右 白馬山栗原寺(りつげんじ
その名は古くは鎌倉時代の正史吾妻鏡や義経記に記載されている 特に義経記には兄頼朝二追われた義経一行が金売吉次の案内で藤原秀衡を頼っての東下りで栗原寺に一泊し秀衡の迎えと共に栗原寺僧兵50人護衛のもと中尊寺に入った寺である 私が最後に頼朝に反逆した秋田の風雲児大河兼任がここで殺されたのではと尋ねた所奥さんが本堂に案内してくれて下の白板を見せてくれた
  大河次郎兼任は秋田八郎潟東部の豪族であったが頼朝が平泉を滅ぼし東北経営を始めた時に頼朝に対する最後の反乱として吾妻鏡にも記載されている謂わば兼任の乱である 奥州では人気があったらしく出羽の頼朝御家人をさんざん打ち破り平泉に迫ったが頼朝本隊と遭遇し敗走し地元の樵・農民によって殺害されたのが栗原寺である 見ずらいが白板の右下に秋田の豪族 大河次郎兼任 栗原寺で亡 と書かれていた   上左 県指定文化財金成尋常高等小学校舎 
明治43年3月5500円で建設されたが東北大学・東北工業大学による調査では明治20年建設と判明した 宮城県唯一んお遺構で現在は歴史民俗資料館として利用されている

金成ハリスト正教会 聖使徒イオアン聖堂
金成町上町に住んでいた酒井篤礼は函館で医業を営んでいたときにニコライによって洗礼を受けた 其の後国禁を犯すものとして追われ明治2年に金成に戻り布教して逮捕された 2年間獄舎暮らした後東京でニコライに師事したのち金成に戻り仮の御堂を建て布教を開始した云う この田舎にこんなエキゾチックな建物がるのに少し驚きました
 


栗原 其の4