屯ヶ岡(営ヶ岡)何と云ってもこの岡は延暦年間坂上田村麻呂が胆沢・江刺の蝦夷の長阿弖流為攻撃に備えここで陣立てをした所なのです 又1051年前9年の役では武神と言われた頼義・義家親子も連敗に次ぐ連敗の連続で「なにをこれしきの蝦夷共」の勢いもどこえやら とうとう出羽の俘囚の長清原武則に助けを求め清原軍15000の援軍をここに集結させ軍議を開いたのがここ屯ヶ岡なのである➡  左 二号古墳は中央型古墳で木棺直葬という古い形式で中央国家の文化につながる古墳だ 木棺からは腕・肋骨・腰骨・大腿骨等の一部や鉄製刀子・金胴製型の帯金具19点・蕨手刀・須恵器等が出土した


  栗駒山 其の3




 A群五号古墳 奥にも同じような柱が建っているがみんな番号ついていてA群・B群に分かれていて50基前後あるようだ
歴史の英雄達と同じ所に立っていることに感激一入である 
左 八幡神社参道 
右上
 屯岡八幡神社
いかに頼義・義家親子が蝦夷に手を焼いたかお分かりいただけると思います 清原氏の力を借りてやっとの思いで安倍貞任・宗任を厨川柵に破り その後頼義は戦勝を感謝しこの地に氏神八幡神社勧進したのが屯岡八幡神社の始まりである それにしても陸奥出羽の各蝦夷がもう少し団結・連携していれば陸奥・出羽国は奥羽蝦夷国家として近世まで独立存続できた可能性があったのです 深く長い山々に仕切られた各地の蝦夷は横の連絡・連携がとれなかったせいだろうか真に残念なことであった
➡ 
栗原郡の宝石 鳥矢ヶ崎古墳群
栗原郡の宝ともされるこの古墳群こそ砦麻呂一族と関係があるされている 宝亀11年(780)俘囚の長で伊治公の姓上治郡の大領 外従五位下伊治郡の郡司砦麻呂(あざまろ)が乱を起こし按察史紀弘純と大領道島大楯を殺害して多賀城までも襲撃炎上させた伊治公砦麻呂の乱一族の古墳ではないかとされている A群・B群にわかれていて43基もの饅頭型墳墓がある 日当たりのよい南向きの丘陵地にあり当時の中央政府との確執から蝦夷の英雄達の民族主義 ナショナリズム象徴ではないでしょうか
上 一号古墳は河石を敷き詰めて石室の形式をとり南から入る横口式の痕跡をのこしているが竪穴式に上から死体を葬る形をとっている 馬具や直刀等出土(説明板)

連合軍の大軍が屯したからこの名がある