陸奥の 朽木の橋も なか絶えて ふみだに今は かよはざりけり 堀河百首
逢う事は 朽木の橋の 絶え絶えに かよふばかりの 道だにもなし 風雅和歌集 藤原朝定
谷川の くち木の橋の 埋もれ木の 人にしられぬ 道や絶えなん 家隆朝臣
ここ古代玉造郡は玉造川の縦横無尽の流路の変化により其の命の絶えた細流が沢山あるのです。そのせいかこの狭い地域に緒絶橋 小川の橋 朽木の橋の橋の歌枕が3っつもあり さらに隣の岩出山町上野目にも津久茂橋(栗原とも言う)もあるというのです。緒絶の橋は悲恋の喩えだがこちらは男女の懸け橋が朽ち果てる心情でしょう。作った物は壊れ 逢った者は別れ 持った物は失い 生まれた者は死ぬ『観無常心』の橋でしょうか。此の世に無常ならざるものはないのです。時の流れに逆らえず朽ち果てる心の橋 それが朽木の橋です。堀河百首は1105年ごろ 風雅集は1346年頃ですが都人の心を捉えた朽木と言う名の橋は何処にあるかと言うと、古川市北部の古川一の景勝の地の化女沼(けじょぬま)と言う付近にあるのです。ここは化女沼古代の里公園がありますが弥生遺跡苔の谷地遺跡をはじめ朽木橋横穴古墳群 三輪田古墳群 宮沢官衙遺跡など人間の足跡が古くからあるのです。その要が化女沼です。今のダムの役割を持っていた沼の水の落ち口に懸けられていたと言うのが朽木橋と言う。。古川市史によれば樽の水栓を方言で「くつぎ(口木)」と言う。水門を開閉して水を出し入れするのも「くつぎ」でありもともとの名は「くつぎの橋」だったろう という。江戸時代はこの辺りは樋口村といっている と述べている。今ここは近代的公園に整備されコンクリートのダムとなっていて昔日の面影はない。ダムの水門から流れる水は長者川と呼ばれその落とし口にある橋は「苔の谷地橋」と呼ばれ朽木の橋とはなっていないのです。沼の東側に朽木橋と言う小字の部落がある。農家2軒のお宅でお聞きしたが朽木の橋はダムの落とし口に懸かる橋ではない。向の田んぼの中を流れていた小川に懸かっていた橋だ。今どの辺りだかはわからないけど と二人とも同じような事を言っていたのは気になる所です。勿論哺場整備で地形は往時とはかけ離れているので特定する事は困難でしょう。古代北上する古道がこの辺りを通っていたのは確かでしょう。そうでなければ都人の噂にも登らなかったでしょう。朽木橋部落の南東に正一位斗瑩(とけい)稲荷神社がある。義経伝説もあるが北辰一刀流の幕末の剣聖千葉周作が5歳から江戸に出る15歳まで住んでいた所でもあるのです。栞には昭和57年6月16日NHK「歴史への招待」でも生い立ちの地として紹介された所である。そこの宮司さんが神社の前の道がこの辺りで一番古い官道だ と言っていたのは何か朽木の橋とは無縁では無さそうだ。それにしてもここにも石碑や案内板が立っていないのは勿体無い事である(参考古川市史 平成15年12月3日) |
化女沼に立つ伝説照夜姫像
朽木の橋
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